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「とる」にどんな漢字をあてるのか

「とる」という言葉に、皆さんはどんな漢字を思い浮かべるでしょうか?

手に「取る」、きのこなどを「採る」、そして「盗る」。一つの言葉にまだまだ、様々な漢字があてがわれます。

写真を「撮る」ことが「盗る」になってはいけないと、この仕事をはじめたばかりの頃に、先輩から口酸っぱく言われたのを覚えています。

これまで多くの取材者の方と出会い、ありがたいことに自分自身が取材して頂く経験も積むことができました。ただ、最初からプロットをたてて、それに合わせた絵をとっていく場面にも残念ながら出くわすことがあります。

結局そのスタンスでは、現地で出会う人たちを「素材」として扱うことになってしまうでしょう。

取材は全て「頂き物」です。時間を頂き、言葉を頂き、そして写真を撮らせて頂く、つまり取材者は主人公ではありません。自分がその場になぜ伺ったのかを相手に伝えることはもちろん必要ですが、それよりも相手がどんなことを伝えたいかに丁寧に耳を傾けることが大切なのではないでしょうか。

センシティブな問題を抱える現場こそ、その場でどんな文化や価値観が共有されているのか、ずっと活動するNGOの方々がこれまでどんなやり方をしてきたのかを、自分が活動する前にまず「観」させて頂くことも重要になってきます。自分に何ができるのか、その場でどう振舞うかは、それを踏まえて考えるべきことではないでしょうか。

もちろん、その場にお邪魔する人間として、失敗したこと、相手を傷つけてしまったことが私としても多々あります。「この場でこの質問をすべきではなかったかもしれない」「この場でカメラを取り出すべきではなかったかもしれない」と。自分に傷つける意図がなくても、です。むしろ意図がないからこそ、傷つけてしまった事実に戸惑います。

東日本大震災以降、私は義理の両親が暮らしていた岩手県陸前高田市に通わせてもらっています。震災直後、数万本の松林の中で波に耐え抜いた「一本松」を、私は「希望」として撮り、発表しました。けれども被災した義理の父は、「これは波の威力の象徴だ」と悲しみました。たった一枚の写真ですが、込めた意図とは違う形で、義父を傷つけてしまったのです。

ここで問われてくるのは、その失敗を包み隠すのではなく、その失敗から何を学ぶかなのでしょう。映像や写真はどうしても、「視点」があり、「編集」作業が伴い、全てを見せられるわけではありません。ただ、美しいシーンだけを重ねてメディアの意義を声高に語るのではなく、失敗を共有し、繰り返さないために何が必要なのか、知恵を出し合うことこそ求められているのではないでしょうか。

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