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記録・技術・アート 〜 展覧会「植物と歩く」@練馬区立美術館

8月6日、「練馬区立美術館コレクション+ 植物と歩く」(7/2~8/25 練馬区立美術館)を観に行きました。
本展は、練馬区立美術館の所蔵作品を軸にした企画展です。大学生は300円!ありがたい!
 
お目当ては、大好きな須田悦弘の作品でした。練馬区民ではない須田の作品をここが所蔵しているとは、意外です。
展示ケースに入った作品がありましたが、思いがけない場所にひょこっとあるその佇まいと、あたかも宝物をみつけ出すようなワクワク感とが須田作品をより光らせるように私には思われます。その点においては、少々物足りない感じがありました。
ちなみにTop画像の看板に使われているのは、須田作品≪チューリップ≫。これはケースに入れられていませんでした。
 
またそれとは別に、本展では牧野富太郎倉科光子の作品との出会いがありました。

牧野富太郎 研究における技術とアート


植物学者・牧野富太郎。NHK朝の連続テレビ小説で今や時の人ですね。
このたび彼の植物画を初めて観ました。これが本当に美しいんです!植物の全体と各部分を個別に描いたものを一枚に配していて、そのレイアウトも見事です!
 

「ホテイラン」
「植物分類学の父、牧野富太郎の “我が植物園”へようこそ」、
CREA Traveller HPより引用
https://crea.bunshun.jp/articles/-/28089?page=2(2023年9月4日閲覧)

「ヒガンバナ」
「牧野富太郎博士の愛した植物が息づく、緑のオアシス「牧野記念庭園」へようこそ!」、
とっておきの練馬HPより引用
https://www.nerimakanko.jp/review/detail.php?article_id=SPE0000136(2023年9月4日閲覧)

どれも研究のために描かれた記録資料ですが、ありのままに、正確に写す行為は、本質的に絵画のデッサンと変わりません。ただ、その営みにある切実さは、研究者の方が強いのではないかとうかがわれます。使命感や責任感。その強さが彼の画をあれだけのレベルまで高めたのだと思います。才能もあったのかもしれませんが、それにしても、相当努力したはず。
 
実は5月初頭、私ははじめてデッサンをしました。鉛筆デッサンです。2日間の集中講座に参加しました。

やってみて実感したのは、目に見えたありのままを紙に描くって簡単ではない、ということ。紫たまねぎを一つ長机に置いて描いたのですが、まずその輪郭を写すことができませんでした。カーブの角度が違い、先生の手直しが入りました。自分ではちゃんと描けているつもりだったんですけどねぇ(汗)。
 
翌日はパプリカ。紫たまねぎと必死に向き合ったせいか、輪郭は前日よりスムーズに写し取れ、「昨日とは別人のよう。憑き物が落ちたみたい(笑)」と先生から声をかけられました。
 
初心者でも、時間をかけ、目を凝らして対象と向き合ううちに、そのありようが、ほんの少しかもしれないけれどよく見えるようになるんです。そう、観察力がついてくる。
そもそも、先生いわく、デッサンの授業はモノを視る目を養うのが目的です。そしてこのトレーニングは、半日も続ければ疲労困憊します。個人差はあれど、間違いなく。
 
牧野もヘトヘトになりながら、観察しては写し取る、を繰り返したのだと思います。そうして精緻に写せるだけの目を鍛え上げ、同時に描くスキルも磨いていったのでしょう。もしかしたら、腕を上げていくその成長過程は、彼にとって喜びだったかもしれません。
 
アート「art」の語源はラテン語の「ars(アルス)」。モノを作るために人間が身に付けた技術を指しました。
 
目的は研究の記録資料だとしても、牧野の描くスキルはアートの根幹に潜む「ars」そのもの!!彼の精緻な植物画と「ars」が、私の中でピタッと重なり合いました。

倉科光子 復興の記録✖アート


 本展の主旨(チラシのテキスト)によると、「植物と歩く」に「植物の営む時間と空間に感覚をひらき、ともに過ごすという意味を込めました」とのこと。それを一番感じたのが倉科光子の作品でした。
 

≪35°36’38.1"N 139°27’38.0”E≫ *1

≪Certain place in Fukushima≫ *2

≪37°33'22"N 141°01'31"E≫ *3
*1〜3は複製画(商品)の画像を引用
https://mitsukokurashina.amebaownd.com/pages/5292901/page_202109102144
(2023年9月4日閲覧)


若々しい緑が印象的な透明感あふれる水彩画の数々は、最初、私にはおもしろみが感じられませんでした。カレンダー向きの絵かも、と思ったり、さらにはなぜこれらが展示されたのだろう、と考えたりしました(倉科さん、ごめんなさい)。

しかしながら、解説キャプションを読んで印象は一変!

彼女が描いたのは、東日本大震災の後、「津波浸水域に芽生えた植物」だったのです。震災前には生息していなかった植物の種子を津波が運んできて、それが根をはり、少しずつ環境を変えていく……。こんなところにも震災の影響があったとは、思いも寄りませんでした。それに目を向けた作家に心から拍手を送りたい。
 
「ツナミプランツ」と名付けられたこのシリーズを観て、森美術館で開催中の展覧会「ワールド・クラスルーム」に出品しているヴァンディー・ラッタナの「爆弾の池」シリーズを思い起こしました。

一見、草むらにある池を撮った風景写真。が、その池は、ベトナム戦争の爆撃でクレーター状になった地面に、水が溜まってできた「池」。伸びた草が周囲を覆いつくすありさまから、時間の経過とそれに伴う環境の変化が伝わります。このまま人々の認識が池として定着するようなことがあれば、真実が覆われていきそう……。

ヴァンディー・ラッタナ「爆弾の池」シリーズ
「森美術館開館20周年記念展「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」レポート。テストも暗記もない「教室」で世界について学ぶ」、
TOKYO ART BEAT HPより引用
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/worldclassroom-moriartmuseum-exhibition-report-202304(2023年9月4日閲覧)


両シリーズでは、イメージの背後にある出来事や、作者の考えを知らせることも重要で、それが作品へ向けるまなざしを大きく変えてしまいます。時間の経過とともに現れ出た変化を捉えながら、それを通じて被災した歴史を間接的に突きつける、そんな衝撃力を内包する作品群です。
 
ただ、「ツナミプランツ」は、陽だまりの中にあるような、どこか明るくふんわりとした空気感があります。そこに希望のようなものを感じる……いや、感じたい。例えばニュースで、外来の昆虫が卵を産み付けて樹木が内側からダメになってしまう、といった被害を時々聞きますが、そのような事態にならなければいいなと願います。(植物同士だから、食べられてしまう、というようなことはないでしょうが。)
 
このような「災害と復興の記録としての植物画」、私は他に思い浮かびません。「ツナミプランツ」に新しい植物画の可能性を感じました
 

参考:tsunami plants Mitsuko kurashina 倉科光子HP
https://mitsukokurashina.amebaownd.com/(2023年9月3日閲覧)


以上、今回の出会いについてでした。


……ここからは余談です。
牧野富太郎の関連施設「練馬区立牧野記念庭園」、バス1本で行けそうだとわかりました。暑さがおさまってきたら、訪れてみようと思います。
牧野の愛飲したブレンドコーヒーも楽しめるそうですよ!
ここでも何か出会いに恵まれるといいな、と期待しています。

牧野記念庭園
「牧野記念庭園について」、練馬区立牧野記念庭園HPより引用
https://www.makinoteien.jp/garden/(2023年9月4日閲覧)


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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