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【古代ローマ英雄伝説に隠された真実】ローマを震撼させたエトルリアの王ポルセンナ

紀元前509年、古代ローマは第7代にして最後の王タルクィニウス・スペルブスを追放し、共和政に移行しました。しかし、権力を奪われたタルクィニウス・スペルブスは、そう簡単に王位を手放そうとはしませんでした。エトルリア出身であった彼は、まず、エトルリアの都市カエレを頼り、さらにはキウージのルクモネ(宗教、政治の最高権力者)ラルス・ポルセンナにローマと戦争するよう説得します。

ラルス・ポルセンナ王Published by Guillaume Rouille (1518?-1589)
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8666003

ポルセンナは、有能な軍の指揮官であっただけでなく、狡猾な政治家でもありました。そのため、キウージを含む中部エトルリアの12都市連盟と南部のエトルリア各都市との間に位置するローマを支配下に置くことの重要性を理解していました。さらに、共和政に入ったローマは、1年間という任期の短い執政官や、地主で構成されていた元老院に統治されていたため、それまで王が振興しいていた大きな公共事業は停滞しており、国力は低下、民衆の不満もくすぶっていたことも分かっていました。そして、ポルセンナは、他のエトルリアの都市も彼に加わり、ローマでも彼を支援する人々が蜂起する準備ができていると確定した時、行動にうつります。

実際、ローマでは王政復古を謀り若者たちが集まっており、その中には、執政官ブルータスの二人の息子も参加していました。しかし、奴隷の密告により陰謀は発覚、首謀者であった二人の息子は、声を発することなく見つめていた父親の目の前で、鞭打ちの刑の後、首をはねられました。

その頃、ポルセンナは、エトルリアの各都市から集められた部隊によって強化された軍を率い、北方よりローマへ近づいていました。

ポルセンナ率いるエトルリア軍によるローマ包囲戦(紀元前508年)は、ローマ側の勇敢な行動のエピソードであふれています。

エトルリア軍は、テヴェレ川さえ渡ればローマを攻撃できるジャニコロの丘をまず占領します。向こう岸に渡るために残っていたのは木製のスブリキウス橋のみでしたが、簡単に渡れるはずでした。橋の上で、武器を手に持った勇敢なローマの戦士プブリウス・ホラティウス・コクレスが、戦友の二人と立ちはだかってさえいなければ。そして、彼らの背後では、ローマ兵が橋を斧でたたきつけ破壊しようとしています。橋をつなぎとめているのが、最後の細い木片となった時、ホラティウスは、仲間の二人に岸に戻るよう伝え、一人残り、剣を大きく振り回し敵の侵入を防ぎました。その最後の一片が崩壊した時、彼は武具を全てつけたまま川に飛び込み、敵の投げ槍が雨のように降り注ぐ中、泳いで無事に岸にたどり着いたとローマ時代の歴史家は伝えています。(溺れ死んだという説や片足を失ったという説もあり)

スブリキウス橋を守るホラティウス・コクレス 、シャルル・ルブラン作(1642年/43年)
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22151760

その数日後、今度はガイウス・ムキウスと名乗るローマの勇敢な貴族が、ポルセンナを殺害するために、エトルリアの陣地に忍び込みました。しかし、ポルセンナのことを知らなかったムキウスは、誤って兵士に給料の支払いをしていた大臣を刺し殺してしまいます。捕らえられ、王の前に連れて行かれたムキウスは、王殺害に失敗した右手を火鉢の上に置き、燃えるにまかせ、死や苦痛を怯えていないローマ兵は自分の他に300人はいると言い放ちました。その時より、彼は左利きを意味するスカエウォラと呼ばれるようになり、後にそれは彼や彼の子孫の家族名となりました。この勇敢な行動に感銘を受けたポルセンナは、このあとすぐに和平条約を持ちかけたと伝説では伝えられています。

ポルセンナの前のムキウス・スカエウォラ(1620年以前)
ブタペスト国立西洋美術館収蔵
ルーベンスとヴァン・ダイク作
https://www.mfab.hu/artworks/mucius-scaevola-before-lars-porsenna/

このように、エトルリア軍によるローマ包囲戦におけるローマ人の英雄物語は、後の時代にも語り継がれ絵画の題材としても描かれています。しかしながら、実はこの戦い、ローマはエトルリア軍に敗北し、ポルセンナ軍により征服されていたという説を大半の近代の歴史家は支持しています。帝政期ローマの歴史家タキトゥスも著書「同時代史」で69年に起こったローマ内戦でカピトリーノのユピテル神殿が焼失したことを記した際、ポルセンナについて以下のように述べています。

ローマを降伏させたポルセンナも、ローマを征服したガリア人も、このような冒涜な行いをする(神殿を焼失させる)ことはなかった。

タキトゥス「同時代史・III・72」

この後に起きるもう一つの英雄譚は、ローマが敗北したことをまさに物語っています。このエピソードの主人公は、ポルセンナに人質として差し出されたローマの若い女性たちの一人であったクロエリア。彼女は、他の女性たちを率いて、エトルリアの陣地から逃げ出し、テヴェレ川を泳いで渡り、ローマに戻りました。ローマの元老院は、その勇気を称えますが、結局彼女たちはエトルリアの王の元へ送り返されてしまいます。(負けていなければ人質を差し出す必要もなく、ポルセンナを恐れていなければ、せっかく戻ってきた人質を送り返すこともなかったことでしょう。)この時、ポルセンナの元へ戻る道中で、人質達は、タルクィニウス・スペルブスに襲われていますが、ポルセンナの息子に助けられています。

テヴェレ川を渡るクロエリア ルーベンス作
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=14586345

また、大プリニウスは、ポルセンナはローマに武器を捨てることを課し、農具以外での鉄の使用を禁止したと残し、プルタルコスは、元老院の近くにポルセンナの銅像が建てられたと書いています。

ティトゥス・リウィウスに代表されるローマの歴史家は、ローマの敗北を上手に隠し、逆に武勇エピソードを華々しく語っています。それは、若者に勇気や、服従、忠誠心の価値を教えるためでもありましたが、後にローマが古代史上、いや全歴史上、類をみない大帝国になったことを考えると、その目的は多いに達成できたと言えるでしょう。

ちなみに、ローマにおけるエトルリアの支配がどのぐらい続いたかはわかりませんが、ポルセンナは、ローマに再びタルクィニウス・スペルブスを王として課すことはなく、軍をジャニコロの丘から撤退させた時は、長い包囲によって困窮していたローマに、武器以外の供給品、特に肥沃なエトルリアの大地から送られてきていた糧食を贈ったそうです。

他にも、ポルセンナには、湖にすむドラゴンを倒したとか、ラビリンスによって守られた巨大な霊廟が建てられたなどの伝説が残ります。それはまた別の機会に。

参考文献:
Storia di Roma dalla fondazione, Tito Livio, Grandi Tascabili Economici Newton 1997
Le vite parallele, Plutarco, Biblioteca Sansoni, 1974
Storie, Tacito, Biblioteca Universale Rizzoli, 2001
ローマ人の物語I ローマは一日にして成らず、塩野七生、新潮社、2001
https://www.storico.org/impero_romano/guerra_porsenna.html




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