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【隠蔽された歴史】古代ローマはエトルリアに征服されていた?ローマの七丘に名前が残るエトルリアの兄弟

古代ローマの、建国から七代続く王政時代の歴史(紀元前753年‐紀元前509年)は、口承に基づいており、伝統的に語り継がれている歴史とは、異なるバージョンがあることもあります。

例えば、奴隷の子であったとされる6代目の王セルウィウス・トゥッリウス(在位:紀元前578年‐紀元前535年)は、5代目の王タルクィニウス・プリスコの養子となり、女王タナクィルの機転で王位を継承したと一般的に信じられていますが、この説とは異なる考古学的・文学的資料も存在するのです。

その中で最も重要なのは、フランス、リヨンで発見された青銅板です。そこには、西暦48年に皇帝クラウディウスがガリアの住民の市民権要求を擁護するために元老院で行った演説が記録されています。古代史、特にエトルリア史の専門家であった皇帝は、6代目の王セルウィウス・トゥッリウスの事例をあげ、ローマ人がラテン人以外の「蛮族」を歓迎し、要職を任せてきたと述べ、ガリア人への市民権を擁護しました。そして、セルウィウス・トゥッリウスは、タルクィニウス・プリスコの救援に駆け付けたエトルリアの指揮官カエリウス・ヴィベンナの副官であり、最も信頼のおける仲間であったと説明しているのです。

西暦48年のクラウディウス帝の演説が記録された青銅板
Di Morburre - Fotografia autoprodotta, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=24295836

一般的には、卑しい身分の出自と言われているセルウィウス・トゥッリウスですが、ここではエトルリア軍の副官となっているのです。

そして、この演説には、セルウィウス・トゥッリウスの上官であったとされるエトルリア人カエリウス・ヴィベンナが登場します公の歴史からは、抹消されてしまった指揮官ですが、彼が実在した人物であった証拠に、彼が駐屯したとされるローマの七丘の一つは、彼の名からカエリウス(イタリア語ではチェリオ)の丘と現在でも呼ばれています。

そして、カエリウス・ヴィベンナには、アウルスという名の弟(兄?)がいました。

カエリウス・ヴィベンナの死後、跡を継いだアウルス・ヴィベンナですが、後の王となるセルウィウス・トゥッリウスと対立し殺されたようです。

そして、ローマの七丘のもう一つの丘カピトリヌス(現カンピドリオまたはカピトリーノ)にあったユピテル神殿の建造中、「アウルス王の頭」と彫られた頭蓋骨が発見されたという伝承が残っています。それゆえ、ラテン語で「アウルスの頭」を意味するCaput Oli(Caputは、ラテン語で「頭」、Oliは、Auliの変形で「Aulusの」という意味)から、カピトリヌスという名が付けられたとも言われています。

そして、このエトルリアの兄弟、カエリウスアウルス・ヴィベンナが、伝説上の人物ではなく、実在したというさらなる証拠が、エトルリアの都市ヴルチの「フランソワの墓」の壁画に残っています。

フランソワの墓内部の復元図
Di Arch. S. Bruba ? - Friedhelm Prayon: Die Etrusker. Jenseitsvorstellungen und Ahnenkult. Philipp von Zabern, Mainz 2006, ISBN 3-8053-3619-5, S. 91., Pubblico dominio, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=65601207

1857年に発見された「フランソワの墓」は、紀元前4世紀のヴルチの大貴族サティエス家のお墓でした。そこには、オーナーによって考案された政治色の強い歴史や神話が主題のフレスコ画が描かれています。

お墓に入って、左側の壁には、ギリシア神話のトロイア戦争を題材に、パトロクロスの霊を前にアキレウスがトロイアの捕虜を生贄に捧げる場面が描かれています。フレスコ画には、エトルリア語でそれぞれの名前が記されていて、登場人物が誰であるかは簡単に識別できるようになっています。

フランソワの墓に残る右側壁画の複製
本物はお墓から取り出され、ローマのアルバーニ宮殿所蔵にされており、一般の見学は不可能
By Carlo Ruspi (1798–1863) - https://www.ancient.eu/Francois_Tomb/, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=65671258

そして、右側の壁には、エトルリアのヴルチとローマ(及び他のエトルリア都市を含むその同盟国)との争いが一連の決闘で表されています。一番左が、捕らえられたエトルリアの指揮官カエリウス・ヴィベンナの縄をほどくマスタルナセルウィウス・トゥッリウスのエトルリア名)、一番右にはアウルス・ヴィベンナが金髪の兵士の喉をかききる様子が描かれています。(皆さん、ヌードでたくましい体です。)

決闘相手には、ヴォルシニイなど、当時、ローマと同盟を組んでいたエトルリアの都市の者も描かれています。ローマの王政時代は、まだまだエトルリアの権力は強く、エトルリアの都市同士でローマの覇権を争っていたのかもしれません。

これらのことより、エトルリア、ヴルチ出身の二人カエリウスアウルス・ヴィベンナが、タルクィニア出身の王が統治していたローマの権力を奪い、一時的にしろアウルスがローマの王となった後、セルウィウス・トゥッリウスが後を継いだとも読み取れます。

真実はわかりませんが、他にも陶器に残る名前などの証拠があるため、ヴルチの二人の英雄兄弟が実在していたことは確かでしょう。それでは、なぜ、ローマの歴史に、この二人の英雄は名前を残さなかったのか。そこには、ローマの起源に外国人の英雄の痕跡を残さないようにしたローマ人の歴史家の意図がみてとれます。

ちなみに、このお墓がつくられた紀元前340年から紀元前330年頃、拡大を続けていたローマは、衰え始めていたエトルリアの各都市を攻撃し、支配下に置いていってました。ヴルチも、このお墓がつくられてから約50年後にローマに征服されてしまいます。

このお墓をつくった貴族は、歴史のサイクルを信じており、ギリシア神話でギリシアがトロイアに勝利したように、そして200年程前にヴルチ出身の二人の英雄がローマ(トロイア人の子孫と言われている)に勝利したように、今回もせまりくるローマの攻撃に打ち勝てるようこの壁画をを描かせたのでしょう。


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参考文献:
Celio e Aulo Vibenna: i conquistatori di Roma dimenticati dalla tradizione di Giulio Antonini
Vulci e il ciclo della Tomba François, Miscellanea a cura di Sandro Caranzano

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