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古代ギリシアの数学者ピタゴラスとエトルリア文明の意外な関係

古代ギリシアの数学者、哲学者であったピタゴラス。数学で習う「ピタゴラスの定理」や、NHKの幼児向け番組「ピタゴラスイッチ」の名前の由来でもあるため、なんとなく知っているという人も多いはず。このピタゴラス、古代ギリシアの数学者ですが、私が探求を続けているイタリア中部で栄えたエトルリア文明とも深い関わりがあります。

ピタゴラスは、「生まれはギリシアだが血統はティレニア人」だと言う人がいます。ティレニア人とは、ギリシア人がエトルリアを指す時に使っていた言葉です。(イタリア半島の西側のティレニア海は「エトルリア人の海」が語源です。)

ピタゴラスの生まれは、ギリシアのサモス島です。

しかし、サモス島は、レムノス島やサモトラキ島など近くの島々と同様に、ピタゴラスが生まれる前は、ギリシア人よりティレニア人と呼ばれてていた民族により一時期占領されていました。例えば、紀元前3世紀の古代ギリシアの歴史家によると「ピタゴラスの父はレムノス島を植民地化したティレニア人である」と記しており、また、他の歴史家も「ピタゴラスは、アテネ人がティレニア人を追い出した後に占拠した島の出身である」と残しています。

ゆえに、古代ギリシア人は、当時これらの島々を占領した民族を、中部イタリアに文明を起こした民族エトルリア人と同じように、ティレニア人と呼んでいたことになります。

イタリアのエトルリア人がどこからやってきたかの確たる証拠はなく、最近行われたDNAの調査ではエトルリア人は土着の民族だったとも言われていますが、もし、古代ギリシアの島々に住み着いたことがあるティレニア人が、エトルリア人と同じルーツを持つのであるならば、まさに、ピタゴラスはギリシア文明で育ったエトルリア人だったということになります。

スペイン人作家Marcos Chicotによる"L'Assasinio di Pitagora"(ピタゴラスの暗殺)
かなりフィクションを交えたピタゴラスについての歴史小説

ピタゴラスとエトルリアの関係は血統だけではありません。

ピタゴラスは、若い頃より、バビロニアやエジプトなどで宗教や学問を学び、マグナ・グラエキアのクロトーネ(現カラブリア州)に最初のコミュニティを設立しました。マグナ・グラエキアとは、南イタリアやシチリア島に古代ギリシア人がつくった植民地一帯のことです。

そして、ピタゴラスが、南イタリアのギリシア文明下で活動していたころ、中部イタリアではエトルリア文明が花開いていました。ピタゴラス哲学を要約したイアングリコス(245年‐325年)によると、ピタゴラスの弟子には、たくさんのエトルリア人がいたそうです。

また、古代ローマの歴史家によるとピタゴラスは、ローマがエトルリア出身の王によって統治されていた時代に、ローマに住んでいたこともあるそうです。さらに、王政ローマにおけるエトルリア出身の一人目の王タルクィニウス・プリスクスのように、サモトラキ島の秘儀信仰に入信したとも伝えられています。

エトルリア社会もまたピタゴラスに大きな影響を受けたようです。ピタゴラスの概念では、数は神そのものであり、神を表わすもっとも美しい形でした。同様の考え方は、エトルリアのルクモネと呼ばれた宗教、政治の権力者の間で管理されていた神聖な科学の書である「エトルリアの教義」の中にもみることができます。

このようにして、エトルリア文明と深い関係を持っていたピタゴラス。エトルリア文明においても、数がいかに神聖であったかを、これからも深掘りできればと思います。


素直にうれしいです。ありがとうございます。