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数多の苦い判断をし続けなければならない日々でも

息苦しい世の中だ、と思う。私たちはこんなにバラバラなのか、とも。

新型コロナウィルスが私たちの生活に入り込んできたことで、これまで存在していたのに見えていなかったことがいくつも見えるようになった。見えてよかったこともあったけれど、見えなくてもよかったこと、見えない方がよかったことが多いように思えて、どんどん窮屈な気持ちになる。

まず、私たちはソーシャルディスタンスという制約のもとに細かく分断された。そしてその制約に従う人、従わない人がいて、従う人の中にも積極的に従う人、疑問を持ちながら従う人がいて、従わない人の中にも同様にいろんな濃度の従わなさの人がいる。
手洗いをどの程度するのかという衛生観念の問題や、外出自粛の範囲をどこに設定するのかとか、これくらいの我慢なら耐えられる/耐えられないとか、あらゆるところに分岐があって人々が細かく分類されていく。

実はそれは人が一人ひとり別の人間で、まったく同じように考える人はいない、というごく当たり前の事実を映しているだけなのに、そこに未知のウィルスが介在すると、自分と違う考えの人を糾弾しつつ自分に賛同してくれる人を求めてしまう。

私は周りの人より注意深く対策をしていると思うけれど、それでも甘い、ありえないという人はいるだろう。まだ誰も正解が見えないから、誰も立ち入らない土地で自給自足の生活をするのでなければ、多かれ少なかれ個々の価値観の問題になってしまう。

個人単位でロックダウンしていれば完璧に感染を防げるとして、そこから「会社で働く」「学校に行く」「買い物をする」「人と会う」という様々な項目に対して、「これをすればOKということにしよう」とそれぞれが判断をして生活している。そうでないと成り立たないことも多い。働かなくてはお金が無くなっていずれ困窮してしまうということや、学校に行かなくては授業や諸々の恩恵が受けられないことと、感染のリスクを天秤にかけて行動している。

もちろんテレワークだとかオンライン授業だとか、リスクを避けつつやりたいことをやれる人もいるだろうし、それができるなら感染から身を守るのに有効だと思う。ただ、それは全員ではないし、今度はたとえばオンライン授業肯定派、否定派がいて、実際に学校という場で直接会うことでこんないいことがあるという主張、それは不登校の子どもを追いつめる発言だという意見、など、ころころと議論が転がり広がり、その分がんじがらめになる。

いろいろ書いたけれど、私はこのコロナ禍で親友を一人失った(私の心の中で大きな距離をとることにした)し、夫との価値観の違いに心揺さぶられる日々だし、息子の預け先と復職について逡巡を繰り返している。

みんな違うからだ。みんな私と同じ考えではない。当たり前だ。でも、こと周りの人間関係に関しては、「存在していたのに見えなかったこと」は、「見えないままでよかったこと」に思える。「私とあなたの違い」は、こんなに表面に浮き出さなくてもよくて、その方が楽しく摩擦なくやれていて問題なかったのに。

やがてこの災禍が収まっても、一度見えてしまったものに目を瞑ることは難しいような気がしている。それ以前に、自分と価値観の違う人間は自分や家族の命を守るために遠ざける必要があって、そこで分断されてしまう。命が一番大事、いつでも。

今回、何度も具体的な「私の価値観」を書こうとしたけれど、怖くて書けなかった。正解が見えない中での私の判断が、誰かを傷つけたり誰かの怒りを買ったりするかもしれない。それはすでにいろいろな人や場から遠ざかっている私にとって、まだ怖いことだ。

命を守るためにと思って、日々何かを犠牲にして対策をしている。無責任と思える判断をした人の行動をニュースなどで知るたびにいら立ちが募る。私が犠牲にすると判断したものは、本当に捨て去ってよいものだったのか、分からない。

それでも。一番大事なことは健やかに生き、生かすことだと思うから、苦しくても判断し続けなくてはいけない。この先に続いている未来のために、耐え続けてやる。ほんとこんだけ苦しい思いしてるんだから明るい未来待ってろよな。頼むよ。

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