絶望を抱きながら、希望を携えている
なんか、今の私は、以前のようには働く気力が全然沸かなくなっていた。
正確に言えば、今のような働き方では、という意味合いなんだろうけど。
結局のところ、やっぱり楽しいのは友達とああでもないこうでもないと悩みながらも何かに向かっている時とか、会社でも友達(上司)とああでもないこうでもない、とプロダクトを創っていたときだなと思う。
目標は忘れずに向かう所へは向かい、同時に試行錯誤して楽しんでいたとき。
あの感覚が一番楽しかった気がする。
人生の局所でその体験をしている。
城崎でもフィリピンでも、所沢でも高野山でも伊豆でも、生きているとたまに「生きていてよかった」と思うことがあるから、生きることを辞めるのは違うんだろうなと思う。
人生は思い出
結局のところ、人生はどれだけ心に残る思い出ができたかでしか測れないように感じる。
思い出の数ではなく、どんな思い出だったかということが全てに感じる。
相変わらず見えている世界には絶望しながらも、思い出や楽しいことのお陰で、絶望だけでなく希望を抱いて生きていけているような感覚がある。
私は、絶望しながらも希望を抱く状態が最も現実的に思える。
そして、人間として健全に思える。
…
私の課題
今の私のモヤつきは、
・目指す所が、その当時ほど明確でないこと
・同じように悩む人がいつも側に居る訳ではないこと
なんじゃないかと思う。
だから、このモヤつきを晴らすためには
・目指す所を、もっと明確にすること
・同じように悩める人といつでも話せたり情報共有できる状態にすること
かなと思う。
…
なんでこのモヤつきを晴らさないといけないと思っているのだろう。
それはきっと、私自身にどうしても赦せない失敗があって、その失敗を失敗のまま終わらせたくない気持ちが強いからなんじゃないかと思う。
組織がうまくいかなかったことで繋がりは絶たれて、何より目指してた世界を実現する道は絶たれて、そこから希望をそれほど感じられず生きているのは、もうさすがに疲れてきたんじゃないかと思う。
希望らしきものはあったけど、今の自分が、たしかにそこへ向かっているのかが、今わからない状況だった。
だから、とりあえず自分の思考の備忘録を共有していきたい。
そうすれば道が拓けるんじゃないかと何となく感じた。
この世の中は「希望だけだ」と訴えるかのような生き方をしている人や、「この世は絶望しかない」と嘆く人は、私の中では未だ真実が視えてないのかなと感じる。
両面あるから、同じ時間に同時に在るものだと感じる。視れていない気づいていない人が、まだ多数派なだけなんじゃないかとそう思う。
私は、私の中にある真実としては、
絶望を抱えながらも、希望を携えている矛盾した状態がデフォルトで自然だなと常日頃感じている。
だから、自分を見失わないためにも、今の自分の感覚や言葉をそのまま、書き綴っていきたい✍
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