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何を書いても空っぽな気がするのは、気のせいか│『ポルトガルの海』フェルナンド・ペソア詩選

自分が、もとより空っぽな気もした。

自分がはじめから空っぽだとは仮に事実だったとしても思いたくないが、今は自分を「空っぽだ。」と思っていたい。
それは、そのほうがラクだからなんだ、きっと。

自分を空っぽとするなら、周りの人も空っぽだった。

*

これまで"ほんとうに"生きてきたはずなのに、空っぽに感じるのは、これまで私が体験してきたことは、"ほんとうの体験"ではなかったのだろうか。

"ほんとうの体験"とは一体何なんだろうか。
"ほんとうの体験"をしているはずだし、常にリアルなのに、"ほんとうの体験"をした実感はない。

これまで"生きている実感"のあった瞬間は、数えるほどな気がしてくる。

事実、まさにこうしている今、"生きている実感"に乏しい。

*

自分が「なぜ生きているか」を自分が十分に納得または実感できていない。

自分として生きていたいと思い、ある詩を読み、考えた結果、「自分でいることは、なにものかでないことだ」という結論に落ち着いた。

『僕は逃亡者だ』


僕は逃亡者だ
僕は生まれるとすぐ
僕のなかへ閉じ込められた
だが僕は逃げた


人がもしおなじ場所に
飽きるのであれば
常にかわることのない己れに
なぜ飽きないことがあろう


魂は僕を探し索める
しかし僕はあてもなく彷徨う
ああ 僕は願う
魂が探しあてることのないことを


ある者であることは牢獄だ
僕であることはなにものかでないことだ
僕は逃亡者として だが
生きいきと生きることだろう

(ポルトガルの海/フェルナンド・ペソア)

だから、自分を空っぽだと比喩せずともいられることが自分が望み続けた"自分でいること"なのだろう。

生きているとき、"考える隙"や間髪入れずに"決してなにものかでない自分"でいられたらもっと良いだろうなぁー。

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