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感受性が強いって結局どういうことなの? 〜13歳の息子と話したこと〜

「あぁ~おもしろかった。さすがにもう寝よう。今の話本にしたら絶対おもしろい。お母さん『息子と話したこと』って、何か文章書きなよ」

2時間近く話し込んだ後に、息子がそう言った。

この話は、思春期の息子のいらだちから始まり「感受性の強さって何なのか?」という話題に発展して、無事着地するまでの話。

「中学生って本当にイヤ!」

息子は昔から学校に足が向かない日がある。最近はそこまで頻繁ではないが、ときどきバッテリーが切れたように動かなくなるときがある。そうかと思えば、フルスロットルで動いているときもあって先が読めない。とてもおもしろい子だ。

中学生になったが、学校へ遅刻していくときはいまだに付き添う。その道すがら、彼は胸の内を明かしてくれる。人の中にいるのがつらいと。

みんながうるさい。めんどくさい。ニコニコしていないといけない。そのままの自分でいることは許されないのかと。

それは今に始まったことではなくて。息子は小学校3年生くらいからずっと「自分の中の自分」と「外から見える自分」に悩み続けている。

そりゃあそうだろう。フルスロットルとエンストを繰り返しているんだから自分でも自分がよくわからないだろうし、周りの友達なんてもっとわからないはずだ。わたしも似たようなところがあるので、よくわかる。

ただ、今の息子は「周りのやつがおかしい」という気持ちが優っているようだった。

なぜそんなおもしろくもないことで笑うのか。一生懸命発表している人の話をなぜ聞かないのか。不真面目な態度をとることがなぜカッコイイと思うのか。

元気がない人をなぜそっとしておかないのか。下ネタばかり言って何が楽しいのだ。毎日同じ自分でないと、変だと言われるのはどうしてなのか。遠回しだけどバレバレのアピールをしてくる女子は何なのか。

どうしてあいつはいちいちリアクションがデカいのか。うるさいうるさい!他人になんて興味ないのに、めんどくさい。中学生って本当に嫌だと。

ざっとまとめればこんな感じか。わたしとしては、そのすべてが中学生らしさのようにも思えた。まわりにいらだつのも思春期らしさなのかもしれないし。

そのとき、わたしはあまり気の利いたことが言えず「人間は多少ストレスがかかっている方が健康にいいという説がある」とか、若干トンチンカンな返しをしてしまった。完全在宅勤務、右手に収まるほどしか友人を持たないわたしは、人間の中で揉まれなくて済んでいる。そんなわたしができるアドバイスなどなかった。

そもそも、わたしがこれと同じようなことで悩んだのは、大人になってから。君や弟を産んだ後だったんだよ。わたしが大人になって悩んだことを、この子はこの年で感じて、考えているということには驚きを隠せなかった。

息子よ、感受性って何かわかるかい?

感受性が強い、感性が豊か。

息子やわたしの困り感を誰かに話せば、だいたいこういう風に締めくくられる。

「感受性が強いんだね」「優しいんだね」「繊細なんだね」

これはわたしもそう言われてきたし、自分自身それで納得していた時期もあった。しかし、どこか疑問と不安が残った。つめが甘い、という感じがしていた。

人の気持ちを考えすぎる、空気を読みすぎる。このせいで身体に支障が出るくらいにしんどいのに「感受性が強い」「感性豊か」の一言で締めくくられることが圧倒的に多い。「いいことだ」と言われて終わる。

特性のメリットデメリットは表裏一体だということはわかっている。でも、感受性という目に見えない数値化できないものは、具体的対策に辿り着きにくくなっているように思った。

日常会話のなかではそう語られることが自然なようにも思うし、無理もない。相手に悪意なんかない。気遣いの言葉であると同時に、紛れもない事実なのだと思う。

でも「感受性」というひとことでは表しきれない心がある。この子にも、絶対それがある。それを、わたしはどうしても形にしたいと思った。

22時、次男が寝静まったあとに、長男の部屋に行ってみた。すると長男は勉強したノートを見せびらかしてきた。わたしはじっくり見るふりをしてから

「ねえ、息子。昼間の話だけどさ。普通がわかんないって思ってるんじゃないの?」

事始めにそう聞いてみた。

息子はこの手の話をめんどくさがることが多い。だから、たぶんそこまで乗ってこないだろうと期待感を堪えながら話してみた。

しかし、息子は乗ってきた。

「普通?わかんない……

わかんない。

わかんない!

あ!それな!マジそれかもしんない!」

フルスロットルのエンジン音がした。

こうなればしめたものだ。わたしは社会のプリントの裏に感受性の図を書いた。

これは心理士さんに教えてもらった「感受性が強いとは」のざっくりした構図。

感受性が強いというのは、ただそこに存在しているだけで、受け取る情報量が多いということ。よく言われるのは、細かいことに気づく、些細な変化にも気づく、情報刺激が多くて疲れてしまうということ。

でも、この文脈と、わたしたちが抱えている困り感がどうもマッチしていない感じがする。確かに部分的には一致するのだけど、完全一致ではないような感じ。

細かいことや変化によく気が付くのだから、気が利くし空気を読むのも上手だし、世渡りがうまくできるのではないかという風に考えられることも多い。でも実際そうではなくて、世渡りや気遣いというのは経験や学習によって培うものであって、感受性そのものの効果ではないんだ。

つまり、入ってくる情報量が多い分「だいたいここらへん」という普通や適当といった範囲の目星がつけにくい。もしくは、一般的な人とズレる

「普通の範囲」を知るためには、周囲と自分の違いに気づき、周囲を観察し、統計を取っていく。その情報をデータとして保存し、必要に応じてデータベースから呼び寄せてくる必要がある。普通や適当の範囲はどこなのかを、自分のデータベースから探ってくるのに時間と労力がいるということだ。

それに、感受性が強いにもいろいろある。息子は場を盛り上げようとしたり、みんなを楽しませようとするけど、わたしはそういうことができない。

息子は感動話ですぐに泣いてしまうけど、わたしは昔から感動話で泣くタイプではない。息子には霊感があるけど、わたしはそうでもない。

息子は心細そうな人に積極的に声をかけるが、わたしは息子みたいな人に声をかけてもらってここまで生きてきた人だ。

わたしは、感受性が強いからって「空気が読める」「優しい」「気が利く」「感動屋さん」という理屈になるのはおかしいって、ずっと思ってた。

そんなに優しくもないし、気の効いた配慮は苦手。自分を繊細で敏感な気質(HSP)だと思っていたときも「優しい」とか「気遣いができる」という定説に触れるたび、正直どこか納得いかない部分があった。「結局感受性が強いって何なの?」という部分でぐるぐるしてしまう。

このくだりで息子に火がついて、まるで爆破するように話をしだした。

「俺は目が合った人だけの人の気持ちすら無意識に考えちゃう。霊感もあるし、自分の中なにかが入ってきやすい。でも、なんでみんなそうじゃないの?なんでそんなことにも気づかないの、普通に考えたらそれ違うでしょって思う。もっと考えてから物言えよって思うんだ」

「なんで?なんでただこの場所にたまたま生まれて、行く学校も決まってて、たまたま通学路が同じっていうただそれだけの理由で、なんで仲良くしたり話を合わせたりニコニコしたりしなきゃいけないんだよ」

「ときどき本当の自分の性格に振れるときがあるんだけど、それはほんの少ししかない。だから本当の自分の性格忘れちゃうんだと思う。

ときどき本当の自分に戻ったような気がして『あ~なんかいい気分』っていう状態もあるんだけど、そんなときも『これだっけな』『なんか違う気もする』とか考えちゃうわけよ」

普段の何気ない会話では「ちょっと何言ってるかわかんない」ってことの多い息子なんだけど、このときは本当に饒舌に、自分の心理やその分析について熱弁してくれた。とても13歳とは思えないほど、雄弁だった。あんな息子の姿ははじめて見た。

話してくれてわかったのは、息子の感受性とわたしの感受性は、根本的には同じように思えるが、表面的な部分が違っているということ。性別や年齢の差なのか、優位な感覚や能力の違いなのか、その辺ははっきりしない。ただ、核の部分に似たようなものをもっているけど、それぞれに全然違っているということ。

そこがまたおもしろいところだった。お互いに頭に描いていることやイメージが違うんだけれど、共通する核の部分をすり合わせていく。具体的なことでいえば、息子は説明や事例にオカルトを用いるけど、わたしはそれを脳科学で理解していくとか。

わたし「ちょっとまって、それは〇〇ってこと?」
息子「だからね、かくかくしかじかで…」
わたし「あ!わかった!」
息子「かくかくしかじかで」
わたし「はいはいはい!わかった!!」
息子「はい!どうぞ!」

互いの頭のなかの全然ちがうイメージを思い描きながら、芯にある感覚を共有していった。このディスカッション……というよりクイズ大会は自然と白熱した。

最後に息子は「そうか、自分のことがわかってないんだわ」と、ひとりでに気づいて興奮していた。さっきまで、周りが悪い、バカな奴しかいないと叫んでいたのに、最後は「俺が自分を知らなくちゃいけないんだ」というところにたった2時間で辿り着いたのだ。

気づけば深夜0時になっていて、息子は「まだ話したい!けど寝なきゃね」と言い、気絶するように眠った。

自分の感受性を守ること

息子と2時間しゃべり倒した後に、浮かんできたのは茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」の詩だった。

ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ

茨木のり子/自分の感受性くらい

わたしはずっと前からこの詩が気になっていたんだけど、そもそも「感受性」が何なのか自分の中で納得しきっていなかったから、イマイチ飲み込めなかった。でも、ようやく少しわかったかもしれない。

感受性が強いということの構図、それによって起こる疑問と不安、そして、自分の感受性を知っていくことの喜び。自分でそれを守るということ。

わたしはずいぶん、周りのせい、環境のせいにしてきた。世の中を見下し、斜に構えていたこともあった。でもそれは自分を知らなかったからだ。

でも、ずっと自分を知りたかった。自分を知ろうとして、ひとりで本を読んで、ひとりで考えていた。確かにひとりでやっても、ある程度まではいける。でも、限界があった。

知識を得て、人と話して、イメージを共有して、考えたことを表現して、その反応を見て。それではじめて、社会や他人を知ることができる。そして、自分を知ることができる。それが最近ようやくわかってきた。

感受性とは何かがなんとなくわかってきたところで、親である自分が息子と同じ場所にいたんだということも、よくよくわかったできごとだった。

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