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あの人を最後に見たとき、ビニール袋を着ていた

最寄駅の前に、家のない女性がいつも座っている。最初に彼女を見たのは、近所にあるスーパーの店前のベンチだった。

彼女と最初に会ったとき、立派なスーツケースを持っていた。スカーフで頭を覆っており、ムスリムの女性のような風貌で、顔もどことなく日本人離れしたきれいな顔をしていた。化粧っけはないが、目が大きくて、顎がシャープで小顔。とてもきれいな目鼻立ちをした女の人だった。

彼女に家がないことは、すぐにわかった。3日に1度行くスーパーで、必ず会ったからだ。いつも同じ格好で、いつも同じスーツケースを持っていた。ときどき、スーパーで買ったであろう菓子パンを食べていることもあった。私は、スーパーに行くたびに「あの人、いるかな」と心の隅っこで思い出すようになっていた。

実のところそのスーパーは、以前からホームレスの温床となっていた。スーパーだけでなく雑貨店や100円ショップ、中古リサイクル店がひとつの敷地内にある。店の前には屋根があり、人が雨をしのぐことができるスペースがたくさんあった。

私がスーパーの前に設置されているリサイクルボックスに空き缶を持っていったときのこと。ホームレスのおじさんが「その空き缶ちょうだい」と言って、声を掛けてくることがよくあった。そのおじさんは足が不自由なように見えた。病気なのだろうか、足の形状が私の足とはまったく違う。私は何度かそのホームレスのおじさんに、空き缶を渡した。彼が私に気づく前に「どうぞ」と言ったこともあった。

当時のホームレスは彼だけではなく、複数いた。中にはホームレスではない人も混ざっていただろうけれど、昼間から酒を飲んで談笑していて、仲間がくれば「おお!」なんて手をあげていたものだ。だから、特別さみしそうでもなく、あまり気に留めることもなかった。

それからしばらくして、ホームレスの集団は忽然と姿を消した。おそらくスーパーの管理者が、ここでたむろしないようにと忠告したのだろう。そのころから、近所でホームレスをみなくなった。

そしてしばらくしてそのスーパーに表れたのが、ムスリムのようにスカーフを巻いた彼女だったのだ。彼女はホームレス集団がいなくなったあとも、そのスーパーの前にじっと座っていた。彼らのように酒を飲んだりはしないし、ただじっと静かに座っているだけだ。本を読むわけでもない、誰かと話をするわけでもない。どこか、怯えたような目でじっと、座っているだけ。特別迷惑となることもないからか、しばらく彼女はそこにいた。

最初に持っていたスーツケースは、いつのまにかなくなっていた。次第に、ビニール袋をたくさん持って歩くようになった。彼女の象徴のようだったスカーフもなくなり、いつも着ていたコートもなくなった。一番最近彼女を見たときには、体中にビニール袋を着ていた。寒さをしのげるものが、ボロボロのビニール袋なんだと、私はすぐにわかった。

彼女はみるみるみすぼらしく、異様な姿になってしまった。すると、いよいよそのスーパーの管理者は彼女に、店前に座らないようにと忠告したらしかった。彼女はその後、海や駅前で時間をつぶすようになる。

子供とも、彼女の話をする。

「家がない人なんているの?」

「台風の日はどうしているの?」

「お母さん、昨日毛布捨てたよね?あげればいいのに。」

小学生の息子は、そんな風に言う。でも、その問いに私ははっきり意見を言えなかった。私も、要らないものならあげたっていいのかもしれないと思う。今朝捨てた、賞味期限切れのパンのことを思い出す。温かい飲み物を恵んであげるお金なら、じゅうぶんに持っている。

でも、それをすることがよいこととは、思えない気持ちもある。彼女がどんな理由で家がないのか、わからない。彼女に落ち度があるのかもしれない。覚悟もないくせに、人を助けようなんて思うべきではないのかもしれない。女性だから、なんとなく気になるだけなのかもしれない。正直なところ、好奇心だってある。なぜあなたは、そこにいるのと、聞いてみたい。

彼女を最後に見かけたとき、髪の毛が丸坊主になっていた。もちろん、あのスカーフもない。それに顔の色が真っ黒で、白目の明るさが異様に目立っている。彼女の当初の姿を知らない人が見たら、女性とはわからない。


ホームレスをかわいそうだと思ってはいけない。同情するのは偽善者。同情するその気持ちさえも、ホームレスより自分が優位にあるという優越感からくるものだ。そんな意見を耳にしたことがたくさんある。

都会に行けばホームレスなんてごろごろといるのは知っていたし、何も思わずに通り過ぎてきた。段ボールの陰に隠れたホームレスに驚いて、顔をしかめたこともある。

ただ、私は彼女が変わり果てていく様を追ってしまった。何年も前から、ずっと見ていた。いつもひとりだったし、誰かと話している様子もない。スーパーのベンチにいるときも、海岸沿いに座っているときも、駅前にいるときも、ずっとひとりだ。最初は一般的な、女性として見えた。しかし今の彼女を見ても、彼女の性別もわからなければ、かつてどんな姿だったかもわからない。彼女は幼い頃、将来ビニール袋を身にまとうことになるなんて、1ミリも思わなかっただろう。

私は彼女がみるみるうちに変わってしまった、と感じている。でも、彼女にとってはそうではないかもしれない。ただ時間が過ぎるのを待つ1日は、どれほど長いのだろう。この数年間、どんな気持ちで生きているのだろう。雨の日も風の日も、そこにひとりで座っているだけなんて、私には想像に余りある。

そんな彼女に、誰も手を差し伸べることはない。話しかけることもない。こんなことを、快適な部屋の中で思うだけ思って、ホームレス支援と検索画面に打ち込んだだけで感傷に浸っている私も含めて。

そして今、彼女をまったく見かけなくなってしまった。





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