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【第9回】気持ちは観測によって証明される~そこにあるものとないもの~

言葉から人の心やコミュニケーションのヒントを紐解きたい。その思いから『言葉とこころの解剖室』というシリーズものを書いています。

無意識に使う言葉や、言葉に対する感覚から「自分」を知り、言語コミュニケーションを通じて「相手」を知ることができます。決して正解のない世界ではあるものの、言葉という高度な道具をできる限り大切に、そして有用に使いたい。

執筆業に携わる者としても、いち人間としても、言葉と心をもっと追求したい!ここは言葉やコミュニケーションを分解、分析して明らかにする「解剖研究」のお部屋です。

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昔から気になっている話がある。

「木が倒れても、そこに誰もいなければその音はしない」という話。

この問いは、ある木が誰もいない森で倒れたときに、音がするかどうかを考えるもの。

人がそのできごとを知覚できない場所で何かが起こったとき、それは本当に存在するのかということを問いかけている。

誰もいない森で木が倒れたとしても、その音はしない。音は、誰かに感じ取られた時点ではじめて観測され、そこにあるもの、そこで起こったこと、として証明される。だから。誰もいない森で木が倒れても、音はしていないのと同じなのだ。

耳や目で観測されることがない限り、そこで起こったことは存在しないのと同じ、なかったことと同じだという説。これは経営学やマネジメントの開発者として知られるピーター・F・ドラッカーの言葉。

これは量子力学や物理学の学者の間で言われていることかと思っていたけど、詳しく調べてみたら、なんと現代経営学者の言葉だというではないか。

つまり「観測」や「知覚」といったものを、人と人とのコミュニケーションに当てはめてこそ、この言葉の効力が発揮されるということだ。

観測できない、他人の心

先日、ある知人と少し話をしたときのこと。自分が、他人からどのように思われているのか気になってしまうことで、彼女は少し悩んでいた。

「ものすごくキツイ香水をつけている人がいて、あの人ニオイがきついよねって話になった。そのあと、もしかして私も、本音のところで何か悪い印象を抱かれているかも」という悩みだった。

誰にでもあることだと思う。人からどう思われているか気にしたことがない人がいるとしたら、それはごく少数だと思う。

わたしはそれに対してなんと返事をすればいいか少し迷った。でも、なぜかふと急にこのドラッカーの話を思い出したのである。

「人の本音を知ることはできないじゃん?自分が知らないことは、ないことと同じ。観測できないものは、ないってことと同じなんだよ!」

わたしはするするとそのような言葉を発した。

実はわたしも少し前に、同じようなことを考えていた。わたしがやっていることに対して、周りの人が密かに心の中で批判しているような妄想に憑りつかれたことがあった。

変な人だと思われているんじゃないかとか、そんなことより他にやることがあるだろうと言われているんじゃないかとか。

「人が腹の中で何を思っているのか」が気になって怖い。結局それは自分が自分に言っている言葉だったのかもしれない。

ある種の妄想のようなものだ。

妄想とは、実際にはないことに対していだく、間違った判断や確信のことをいう。

もちろん、実際に人からそんなことを直接言われたわけでもないし、どこかで耳にしたというわけでもない。ただ、頭の中に浮かんでいる可能性(危険性?)の話だ。

この「もしかして、よく思われてないかも?」の疑念が沸くと、不思議なことに今度は「ある」を探すようになる。人のちょっとした言葉の意味や表情といったものをすべて「ある」に結びつけようとする。

でも、わたしは最近、自分が見たわけでも聞いたわけでもないことを「そうかもしれない」と心配し、悪い仮設を立て、それを信じることの無意味さを痛感するようになった。

知らないほうが幸せなこともある。
知らなければ、ないものと同じ。
それをわざわざ探してしまうのは人間に危機管理能力や防衛本能なのだということはわかる。でも、やりすぎると自分を壊す。

なかったものを「ある」と認めること

逆に、今まで見えていなかったものをあえて深堀りし、観測することで「ある」に変えることもできるのがこの世の中だと思う。

最近わたしは仕事で、組織内の人の話を聞き出していく役割を受け持つようになった。今まで見えていなかったものを、わざわざ掘り起こして「ある」ことにする仕事である。

ここでも「観測してはじめて、そこにあることになる」という森の中の木の話を思い出す。

声を上げることができなかった人、困っていたけど我慢していた人は、実にたくさんいる。

そんな人たちの気持ちを観測すると、その人がそこに確かに存在し、どんなことを感じているのかという詳細が浮き彫りになって、生きてくるのだ。

人の気持ちを聞くとは「観測」することである

人の気持ちは目に見えないものだから、観測するなんていう言い方はあまりしないだろう。

人の気持ちを思うとか、気持ちを受け入れてあげるとか、話を聞いてあげるとか、傾聴とか……そういう言い方をされることが多い。

しかしわたしは、人の話を聞いたり、気持ちを聞いたりすることの本当の意味は、そこに存在する人の感情や気持ち、体験した出来事を観測することであると思う。

深い森の中で一本の木が倒れるその音を、聞く。知覚する。

それだけで「今ここで起こった出来事が観測されました」という存在証明になる。

人と人とのコミュニケーションに置き換えたら、これは

「あなたが今感じていること、体験したできごとを観測しましたので、あなたという存在がここにあることを証明します」ということになるんだよね。

だからこそ、観測できていないものを「ある」と信じて、観測しようと躍起になるとかなり疲れる。

幻想生物をこの目で観測しようと追い続ける冒険家くらいの労力がいる。

重要な未確認生命体を発見したらそれは、しっかり観察してどんな風に生きていくのか観察していくわけだ。それは、喜び、発見、感動を呼ぶものになる。

ものすごく、シンプルなことだと思う。

人の気持ちは難しいとか、複雑だとか言うけれど、本当にそうかな。

ただそこに「あるね」と認めてあげれば、それだけで立派な存在証明になるということ。気持ちをただただ聞いてあげることは、あなたがそこにいるね、というメッセージになるということなんだね。

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