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【第7回】言葉の壁とバベルの塔|言葉とこころの解剖室

言葉から人の心やコミュニケーションのヒントを紐解きたい。その思いから『言葉とこころの解剖室』というシリーズものを書いています。

無意識に使う言葉や、言葉に対する感覚から「自分」を知り、言語コミュニケーションを通じて「相手」を知ることができます。決して正解のない世界ではあるものの、言葉という高度な道具をできる限り大切に、そして有用に使いたい。

執筆業に携わる者としても、いち人間としても、言葉と心をもっと追求したい!ここは言葉やコミュニケーションを分解、分析して明らかにする「解剖研究」のお部屋です。

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神の導きとでもいうような、不思議な体験をした。今日はその一連の体験から、人の言葉とこころを自分なりに紐解いてみたいと思う。もちろん言葉をテーマにした話題ではあるが、今回は人間の脳の不思議と、言葉の話がミックスされた内容だ。

昨晩、BABELという映画を観た。BABELは、ひとつの猟銃殺人未遂事件をきっかけに、複数の国に住むさまざまな人間模様のつながりを描いた作品である。時系列が交差しており、最初はバラバラだったシーンや人間のつながりが徐々に浮き彫りになってくる。旧約聖書で語られているバベルの塔をモチーフにしていることは、BABELという映画タイトルからもすぐにわかるだろう。

この映画は、以前一度観たことがあった。個人的にとても素晴らしい映画だと思うので、強く印象に残ってはいた。しかしBABELの日本での公開は2007年で、14年も前の映画だ。

わたしは同じ映画を何度も繰り返し見るタイプではなく、時間をとって鑑賞するなら新しい作品を観たいタイプなのだが、なぜ今回は違っていたのか。

実は、数週間前からずっと頭の中に「BABELが観たい」という思いが、小さなシミのように浮かんでいたのだ。そこに理由はない。なぜか、無性にあの映画が観たい。ただそれだけ。

それでも、2時間映画をじっくり観る時間がとれなかったり、疲れて気力がなかったり、別の趣味を優先したりと、なかなかタイミングとの焦点が合わなかった。昨日はそのタイミングがすべてピタリと合って、何にも邪魔されることなく映画を楽しんだ。

映画は相変わらず素晴らしいものだったが、わたしは見終わってからようやく気付いたことがあった。

「バベルの塔は、世界に異なる複数の言語がある理由」を示す神話であること。建設に関わる人々の言葉をバラバラにすることでコミュニケーションを難しくさせ、文明による「人間の思い上がり」を改めさせようとした話であることを。

「バベルの塔」は、人間の思い上がりや実現不可能な計画の比喩として使われている。でも、そもそもは「言葉を通じなくさせることで、自分たちの無力さや愚かさを自覚させようとした話」からきているのだった。

このシリーズを書いているように、わたしは言葉や人とのコミュニケーションについて日々考える時間を設けている。これを続けているうちに、わたしは「人間は、言葉が通じない世界に生きている」ということを痛感したばかりだった。

映画BABELでは、国ごとに言語が異なることで人間の非力さを表現している。それと同時に、日本を舞台にした場面では聴覚障害をもつ者と健常者の違いを用いてコミュニケーションの困難さ、心が通じ合うことの難しさを描いている。

同じ言語であっても、同じ民族であっても、それぞれが普段使う言葉や手段、自身の特徴、環境などがすべて異なる個人間でも「通じない」という状態が起こり得る。こころはすれ違い、憤りや怒りを感じ、人間が歪んでいく。自分という人間の小ささや愚かさを、猟銃をのど元に突きつけられるように感じる瞬間だろう。

人間は「自分たちが無力で小さな存在であること、愚かであること」を知り、それを受け入れてはじめて、誰かと心が通じる。生まれたときに戻ったように。そのことを痛いくらいに見せつけられる、まさにバベルの塔の比喩そのものである。

バベルの塔建設を指揮していたのは権力者ニムロデである。ニムロデは、天にも届くバベルの塔を建設し、自分の名を上げるためにたくさんの労働者を支配した。「神に従うことは奴隷になることである」と説き、権力のない人々はそれに従ったのだ。

現代社会でも、そしてわたしのすぐ近くでも、この神話の通りのことがたくさん起こっている。どこかに権力者が現れ、支配する人とされる人の構造は簡単にできる。組織であっても、個人同士であっても、それは同様のように見える。

わたし自身、バベル建設の労働者のような立場になり誰かに従順になりすぎたり、あるいはニムロデになり誰かをコントロールしていた、そんな経験もある。最初は、自分たちの暮らしや人生を、よりよいものにしよう、同じ過ちを繰り返さないためにと思って始めたことも、いつの間にか「思い上がり」や「おごり高ぶり」に変化することがある。

それを壊すのはいつも「言葉」のズレであり、コミュニケーションであった。

塔が高くなればなるほど、自分の愚かさなど見えなくなる。たくさんの人の協力や支援、施しや想いがあることも忘れ、その塔を自分だけの力で築いてきた「城」だと思い込む。この思い込みが起こるのは、自分の城を天まで届かせることによって、社会や他人に「復讐」しようとしているからなのだということがよく理解できた。

このような方向に走ってしまうと、組織や人間関係には必ずコミュニケーションのすれ違いが起こり、分断する。これが、わたしの考える「同じ言語で話すのに、言葉が通じない世界」なのだ。

「相手と他人と間の言葉には、違いがある」という前提で接することは、やっぱり大切なことだった。自分は相手の言葉を100%理解できていないし「自分は独自の解釈をしている」という愚かで非力な部分があると知ること。これをわたしは、常に自分に問うていきたいのである。

しかし、わたしは言葉やコミュニケーションというものを深読みして、相手を批判して、自分の嘆きを聞いてほしいときがあった。これこそ、自分のおごり高ぶりである。

わたしは、自分の中に少しずつ形成されかけていた塔を、このBABELという映画を再度見ることによって、補強したのかもしれない。

しかしわたしは人間だ。どうせまた過ちを犯す。わたしもきっと、いつの間にか心の中で思い上がり、おごり高ぶるときがくるのかもしれない。そうしたらその時は、誰かとの間に言葉の壁ができて、こころが通じなくなるのだろう。それをずっと、繰り返していくのだろう。まるでバベル建設の石工のように。

しかしながら、この映画に吸い寄せられるかのように触れたのは、本当に不思議だった。

バベルの塔の詳細などすっかり忘れていた。でも、きっとわたしの脳は、どこかでいつかの昔に見聞きしたことの記憶をちゃんと結んでいるのだと思った。わたしが幼いころ学校で聖書の話を聞いていたこと、そしてこの映画を14年も前に見ていたことは、頭のどこかにずっと残っていたのだろう。

やっぱり、神の導きはあるのかもしれない。信仰心のないわたしでも、そんなことをいくつもの視点から感じた出来事であった。





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