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「恩師」と絶縁します

OB会の連絡が来た。高校時代に属していた野球部の同窓会。当時お世話になった恩師も来るという。俺はすぐに返事をした。

「行かねえわ」

弱小高だった。夏の予選では七年連続一回戦負け。にもかかわらず、なぜか監督は甲子園出場経験者で、練習時間だけは強豪校並み、そして、当然のように体罰があった。

いわゆる大谷翔平世代、平成のど真ん中を駆け抜けてきた俺たちは、暴力が平然と許された環境の、最後の経験者かもしれない。

怒号恫喝は当たり前、平手打ちや回し蹴りも日常茶飯事で、時にはノックバットで鳩尾をどつかれて、「人間として終わってる」「小学生より使えない」などなどの温かい言葉で殴られ続けた。

そんな毎日だから、大好きだった野球が何一つ楽しくなった。

一日一日を生き延びること。
それだけが、あの頃の俺のすべてだった。

それでも、部活は最後まで続けた。
続けることだけが自分の存在証明だと考えていた。
逆に、途中で辞めていく仲間たちを、俺は心底見下した。
あいつらは途中で逃げ出した負け組だ、今後の人生もそうやって逃げ出すだろう、だが俺は違う、俺は何があっても逃げ出さない、お前らとは違う。
いま考えれば馬鹿げた考えだが、あのときの俺は誰かを下に見ることでしか、ギリギリを持ちこたえることができなかった。

高校を卒業して、大学では部活動に入らず、野球サークルに入った。
素人が半数近くを占めるから、へたくそな俺だって主力になれたし、誰にも怒られない草野球はとにかく楽しかった。
でも、そのときは、いまこんなに楽しいのは、高校時代につらい練習を経験してきたからだと、そんな考えもなくはなかった。
だから、というのか、卒業してからも俺は野球部との関係を断ち切らなかった。OB会があれば顔を出したし、時には練習を手伝いに行くこともあった。
「恩師」はOBには優しかった。

だが、あの日々のことは、簡単に俺の中から消え去らなかった。
バットで殴られる刹那を、暴言を吐きつけられる瞬間を、俺はたびたび夢に見た。

大学のころは、まだ笑い話になった。またあんときの夢を見たよと、あのときの仲間たちと酒の肴にした。
でも、社会人になっても、二十代も後半に差し掛かっても、それでも悪夢は消え去らなかった。
思っていた以上に、自分にとって、深いトラウマとして植え付けられていることが、だんだんと分かってきた。

あの日々は間違っていたと、俺は気付き始めていた。

だけど、高校生活のほぼすべてを捧げたあの日々を否定するのは容易なことではない。
当時は大変だったけどさ、あれがあったからこそ今があるよね。
そんな風に言う人もいるけれど、違う、暴力は絶対に否定しなければならない。

そうすると、だんだんと俺は「恩師」に腹が立ってきた。
俺を傷つけたうえで恩師顔をしている「恩師」が許せなかった。

先生、覚えていますか?
あなたが丹精込めて殴り倒した生徒の痛みを。
俺はいまだに夢に見ます。

だから、俺は「恩師」の出る場には顔を出さないことに決めた。
たぶん、OB会に行ったら行ったで楽しいのだろう。
一緒に死線を潜り抜けてきた仲間たちにも会いたい。(もちろん嫌な奴もいる)
でも、「恩師」の所業を少しでも肯定することはしたくない。
だから、もう俺は、二度と「恩師」の顔を見ることはないだろう。

俺は野球は大好きだ。
しかし、野球部という文化は総体として本当にどうしようもない。
個人個人ではいい人も多いだろうが、全体となると暴力やマッチョイムズに毒されて、少しでもそぐわないものは徹底的に排除される。
その一端をたぶん俺も担ってきた。
後輩たちにそういった振る舞いをしてこなかったか?傷つけてこなかったか?
自問の先はいつも真っ暗だ。
だから俺は少しでも罪滅ぼしとして、血と痛みで塗りたぐられた過去の礼賛から降りることにする。
自分の痕跡を肯定するために暴力を肯定する人間にはなりたくない。

さよなら野球部。
さよなら平成。
俺は自分の人生をきっちり否定して次へ行く。

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