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第17回 自分を「裁く」ことをやめよう

私たちは、自分自身で善悪の判断をすることができます。

例えば皆さんは、「遅刻してはいけない」ということが、はっきり分かりますよね。

それは子供の頃から、遅刻をしてはいけないという事を教えられ、遅刻した人が罰せられるのを見て、更には自分が遅刻をした時に怒られて、育ってきたからです。

こうして、自分の中に「遅刻をしてはいけない」という明確なものさしができるので、誰に言われる事が無くなっても、自分で自分を律して行動できます。

こうした、自分を「律する」機能を、心理学では「超自我」といいます。

一時の衝動や感情に流されないように、無意識にかかる「ブレーキ」のようなものです。

もしこの超自我がなくて、全員が本能のままに生き始めたら、この社会は崩壊してしまいます。

社会的な決まりを守って、人間らしく生きるために、必要な機能なんですね。

…しかし、この超自我が強すぎると、問題が起きてきます。

もしあなたが「人を傷つけてはいけない」と、強く分かっていながら、ふとしたはずみで人を傷つけてしまったら、どうなるでしょうか。

たとえ罪に問われなくても、「人を傷つけてしまった」という思いが、自分を責め続けることでしょう。

これは「人を傷つけてはいけない」という、超自我の規制が強いため、「自分で自分を裁いてしまう」事から起きて来ます。

これと似たようなことが、毎日色々な所で起きています。

例えば、私はそんなに器用な方ではありません。仕事を始めた時は、ミスばっかりしていました。

私の心の中では、「人に迷惑をかけてはいけない」という超自我の規制が働いていますので、自分を厳しく見て、ミスをした自分を責めて、覚えるようにハッパをかけて、緊張した状態で仕事をする訳なんです。

しかし「迷惑をかけてはいけない」と思っているのにも関わらず、現実の私は沢山のミスをして、多くの人に「迷惑をかけている」。

すると、自分を厳しく見ている分、情けない現実との間にギャップが生まれ、「どうしてこんな事も出来ないんだ」と、自分で自分を責め始め、負の感情が湧き上がってきます。

責任感の強い人ほど、裏を返せば厳しい目で自分を見て、自分を責めてしまいます。どんどん自分を追い込んで、一人でしんどくなってしまうのです。

また、似たような所で、心的外傷(トラウマ)と言うものがあります。人からひどいことを言われた時、その言葉が頭のなかで何度もこだまして、忘れられずに、ずっと苦しめられ続けるのです。

例えば、「うわ、きもーい」と悪口を言われたとすると、それがトラウマとなり、鏡を見るたびに、服を選ぶたびに、頭の中で「うわ、きもーい」という声が鳴り響き、あなたを裁き始める。

つまり、自分で自分を責める代わりに、その人が頭の中に居ついて、厳しい事を言い続け、負の感情が湧き上がってしまう。

こういった時に、心の中で何が起きているのかと言うと、超自我が、自分や人の「出来ていない部分」をあげつらい、無意識に「ここがおかしい」と裁き続ける。

ここがおかしい、あそこがおかしいと、頭の中でぐるぐると考えが巡り、その結果、怒りや悲しみと言った負の感情が湧き上がってくる。

ここで大事なのは、どちらの場合でも、「結局自分を責めているのは、自分」だという事です。

とある先生はこの行き過ぎた超自我に対して「悪徳裁判官」という言い方をします。

今日のキーワードは、「悪徳裁判官」です。

頭の中にこの「悪徳裁判官」がいて、色んな事を裁いていると想像してみて下さい。

人前で恥をかいてしまったときなどは、裁判官が自分を客観的に見て、「私はなぜあんな事をしたんだ」と、やってしまった自分を責めて、苦しめる。

人からひどいことをされた時などは、「あの人はなぜあんなことをしたんだ」と、相手を責めて、結局自分を苦しめる。

もしくは嫌いな相手が頭の中に入り込み、「お前はなぜそんな事をするんだ」と、自分を責め続け、自分を苦しめる。

自分を責めようが、相手を責めようが、結局負の感情が湧き上がってきて、しんどい思いをするのは自分です。

つまり、私たちは、真面目なふりをして、あの手この手で巧妙に自分を「しんどくしている」んです。

いつもイライラが抜けなかったり、感情に振り回されてしまう人は、「超自我」や「悪徳裁判官」という名の「自分を裁く気持ち」が強すぎて、物事を厳しく見すぎているのかもしれません。

さらに人間は、「自分を扱うようにしか人を扱う事が出来ない」ように出来ているので、自分に厳しい人は、無意識に人にも厳しさを求めてしまい、家庭などでのいざこざの種になります。

「自分を責める」事は、「他人を責める」事。

無意識に「厳しい目」で周りを見ている事が、自分や相手に対して、色んな悩み事を生んでいるんです。

ここで、今日のテーマである「許す」という事が、重要になってきます。

許すの語源は「ゆるます」で、力を抜いて、体をゆるませることです。

許すとはつまり、「こうあるべきだ」という思いをゆるませて、自分や他人の「ありのまま」を認めてあげることなんです。

「もっと痩せているべきだ」にとらわれて、苦しくなっているなら、「太っていてもいいじゃないか」と太っている自分を認めてあげて、自分の中の厳しい目をゆるませ、許してあげる。

上司に怒鳴られて、「俺には能力がないんだ」と、苦しくなっている時は、「俺はよくやっているよ」と自分の味方になって、厳しい見方をゆるませて、出来ない自分を許してあげる。

人の出来ない所が目について、悪徳裁判官がそれを裁きはじめ、腹が立って来た時は、「まあいいじゃないか」と、相手も自分も許してあげる。

悪徳裁判官が自分を裁きはじめ、苦しくなって来た時は、自分自身や、他人の「味方」になり、「許す」という事を意識するだけで、心がとても楽になります。

天理教の教祖、「おやさま」の生涯にも、人を許される話は沢山残っています。

ある時、女中のかのという人がおやさまを亡き者にしようと、食事に毒を盛りました。何も知らないおやさまはそれを召し上がられ、ひどく苦しまれましたが、「これは神様がおなかの中を掃除して下さったのだ」と仰って、かのを許してあげた。

ある時、米倉を破って米を運び出そうとする者があった。男衆達はこれを見つけて取り押さえ「訴えよう」と騒いでいたが、ふと目を覚まされた教祖は、人々をなだめて
『貧に迫っての事であろう。その心が可哀想や』 と、かえっていたわりの言葉をかけた上、米を与えてこれを許された。

とある宗教家は、「許す」事こそが「愛」であり、人間に一番必要なことだと説きます。
マザーテレサは、「人を許すことは、非常に困難で簡単には出来ないことです」と述べ、「真に人を愛するためには、許すことを知らなければならない」と言っています。

「許す」という事は、つまり自分や他人に「愛」を与える事です。

無意識に人を責めてしまいがちな私達の心だからこそ、「許す」事を意識しましょう。

これは争いを静め、心穏やかに生きる為に、しっかり心がけておかなければならない大変重要な側面なのです。

人生を通して、人の道を説いたおやさまをはじめ、キリスト、ブッダ、マザーテレサなど、「偉人」と呼ばれる人々の人生は本当に魅力的です。

しかしこれが自分にも厳しく、人にも厳しく、辛く苦しい道をただ通るだけでは、誰も付いて来なかったでしょう。

傍から見れば大変な道を通りながらも、人には許しを与え、自分自身も「楽しんで通る」という、その姿が魅力的だから、人が付いて来たんですね。

「律する事」と、「許す」事は、二つで一つ。

いくら許す事が大事だと言っても、だらしない自分を許し続ける所には破滅が待っています。

「自分を律する」事を通して自分を高める努力をし、魅力を付ける所に、人生の輝きがあるのです。

しかし「悪徳裁判官」というように、自分や他人を厳しく見るあまり、負の感情が湧いてはしんどくなってしまいます。

自分の中で裁きを振るっている「悪徳裁判官」に気付いた時には、負けないように自分の味方になって、「許し」を与えましょう。

しっかり自分を、他人を「許す」ことが出来るようになるからこそ、負の感情に振り回される事がなくなり、晴天の心で毎日を通れるようになるのです。

「許す」事と、「律する」事をしっかりと深めて、魅力的な人生を送りましょう。

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