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蜜のあわれ

『おじさま、人を好くということは愉しいことでございますという言葉は、とても派手だけれど、本物の美しさでうざうざしているわね。』

「それ以上の言葉は先ずみつからないね、女の人の言葉としては正直すぎているくらいで、だれでもそうは書けないものがあるね、大胆な表現でしかも極めて普通なところがいいね、どんな人なの。」

『おじさま、言ってごらん遊ばせ。』

「いやだよ、いい歳をしてさ。」 

『ね、一ぺんこっきりでいいから言って見て頂戴。男の人の口からそれを聞いてみたいんだもの、人を好くということは愉しいことでございます。……』

「人を好くということは、……」 

『愉しいことでございます、と、息をいれずにひと息に仰有るのよ、おじさまったら、歯がゆくてじれったいわよ、人を好くということは愉しいことでございますと言うのよ』

「人を好くということは、……」
『すぐ、あとを言いつづけるのよ、判らない方ね。』

「僕にはとてもいえない、かんにんしてくれ。」

『何て年よりのくせにはにかみやだろう、もう言わなくてもいいわよ。』 

「おこったね、じゃぁ言うよ、人を好くということは人間の持つ一等すぐれた感情でございます。」

『ちがうわね、勝手に言葉を作ってはだめじゃないの、人を好くということは、ほら、早くさ。』

「人を好くということは、……」 

『何てじれったいおじさまでしょう、それで小説家だの何のって可笑しいわよ、あたいの言葉の終わらない前に続けるのよ、人を好くということは、なのよ、あら、黙っちゃった。』

「………」

『言わないの、早くさ。』

「僕はだめだ、きみひとりで其処で何度でも言ってくれ、僕はばかばかしくなるばかりだ。」

『わかさがないのね。』

「何もないよ、すっからかんだよ、好きでも口にはいえない言葉というものがあるもんだ。」

『あたいね、おじさまのようなお年よりきらいになっちゃった、幾らいってもテンポが鈍くて、じれじれして噛みつきたいくらいだわ。』

「金魚に噛みつかれたって痛かないよ、いくらでも噛みつくがいいよ。」

『あんなこと言っている、あたいだって一生懸命噛みついたら、おじさまの痩せた頬のにくなんか、咬みとるわよ。』

「怖いね、大きな眼をして。」

『おじさまと遊んでやらなかったら困るでしょう、呼んだって返事しないからね。』

「こまるな、あやまる、きみが遊んでくれなかったら、誰と遊んだらいいんだ。」

『じゃ、先刻のことをもう一遍くり返していうのよ、ね、いいこと、人を好くということは、……』

「人を好くということは愉しいものです。」
                ( 


室生犀星「蜜のあわれ」より抜粋)
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室生犀星の「蜜のあわれ」の大好きなくだりのひとつだ。


老いた小説家“おじさま”と赤い三年子の金魚“あたい”の会話のみで二人の日常を描いたこの小説。 
時として若い女の子に化身した金魚“あたい”との日々は、死の気配…死とエロスが隣り合う、繊細で美しく怖ろしい世界… 
わたしはこの小説が好きでたまらない。

そして…このくだりも好きだ。
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『こんなに尾っぽ食われちゃった。』
「痛むか、裂けたね。」
『だからおじさまの唾で、今夜継いでいただきたいわ、すじがあるから、そこにうまく唾を塗ってぺとぺとにして、継げば、わけなく継げるのよ。』
「これははなはだ困難なしごとだ、ぺとついていて、まるでつまむ事は出来ないじゃないか。もっと、ひろげるんだ。」
『羞かしいわ、そこ、ひろげろなんて仰有ると、こまるわ。』
                ( 


室生犀星「蜜のあわれ」より抜粋)
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尾っぽを少し食われてしまった金魚“あたい”が老作家に手当を頼んでる時の会話…。
なんとコミカルで淫美でしょう。
二人の描き出される日常の戯れは…とても可愛いくも心を通わせた官能に満ちている…。

好きだ…。

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