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『欲の涙』20(最終)

「むこうにいる人びとが見える--だが、それ自身は見えない」

(『父祖の信仰』 フィリップ・K・ディック 著)



 外に出た。

 寂しげな雨がぽつりぽつりと降っている。湿度が高くなっている。気温は、気持ち涼しくなった気がする--。

 空を見上げると、月の光がまぶしい。雨なのに。雲に覆われた隙間から差す月光は、オレと長野を同情の色に染めていたように思えた。

 ムダ骨ご苦労さん。おこがましい同情の光を、月は放っている気がした。

 一緒に外に出たら長野は、気がついたらオレの顧客でもなんでもない、ただのトラブルメーカーになっていた。

 「長野さんよ、早くタクシー呼んでくんねえかな?」
 「は、はい!」

 膝が震えていた。怖気づく姿を見ると余計にいら立つ。勢いに任せて殴りたい衝動に駆られもした。

 5秒待つんだ、こういう時は。

 5秒間に、今長野を叩くのが損か得かを計算する。それでも荒ぶった感情が落ち着かない時はいけばいい。

 5秒数えるうちに妙なモンが目に入ってきた--。こんな小路から見えるものなんて何もないハズ、と思った矢先にフェンタニルをキメて奇声を発している、年増の女が声にならない甲高い声をあげている。

 オレはため息ひとつ。長野はその女の奇声に怯えている様子。今まで見たことのない世界なのだろう。

 「なんですか、あれは?」と訊きたげなのはこちらも察したが、長野は何も訊かないのが無難と思ったのだろう、オレには声をかけなかった。

 5秒なんてとっくに過ぎていた。殴る必要も何をする必要もない。タクシーに乗ってからだ、どうするかを考えるのは。タクシーのライトがこちらを照らしている。迫ってくる。運転手は20代後半か30代前半くらい。

 中に入るや否や、行き先を警察庁と伝えた。ものおじた様子で、また震えた声で、「はい」と。
 「同乗者様の手当でしたら病院が…」
 「バックミラーあんま気にしないで。仕事に専念してもらえればいいよ」
 「すみませんでした」と、答えたタイミングで口止め料を長野が差し出した。ヤツの口の中から流血が治らない。

 新人なのか分からないが、運ちゃんは、なんの意図で1万円が渡されたのか、皆目検討がつかないもよう。

 「黙っててくれればいいんだよ」とオレが添えて、長野もうなずいた。--口から血を飛ばして余計なこと話すなよ、と言いかけたが、ここで運ちゃんが動乱されても困る。長野を鋭く見つめ、目線でクギを刺した。

 沈黙が続いた。

 冷たい沈黙が。少し空いた窓から流れる、その硬直した空気が、オレの渦巻く感情を切り裂く。虚しさ、怒り、無力感--どこからやってくるのだろうか。

 結局のところ、オレは自分主導でこの件を片付けている「つもり」だった。実際は違う。ハムと組、議員にうまく利用されてただけ。囲われて、手のひらで踊らされていただけ。違ぇか?

 長野は切り捨てられるのか、ここにきて怪しくなってきた。要は、組を潰すためにハムが用意した、単なる駒にすぎないのかもしれない。汚職だなんだ言われて、デコに送りつける運びだが、最終的にコイツを守るのは日の丸なのかもしれない。

 すべては霧の中。つかもうとしても、手から消え去っては、またつかめたのではないか、と錯覚する。

 錯乱しているのはオレだけなのか?過ぎゆくネオンの光が、オレの心のくすぶりをより明るく、鮮明かつ立体的に照らす。横にいる長野に目を向ける。コイツは無機質な生物としか思えなくなった。

 理由なんてないんだ。あってもくだらないモンさ。

 「お一人で"ここまで"大変だったでしょう」と長野。その場で顔をブン殴った。感情も何もない。言葉の外、皮肉だとか、そんなのはどうでもいい。今ここで、口を開くのがオレの神経を逆撫でした。

 運ちゃんは何か言いたげで、仲裁しようと思っているのがつたわるほどに、目が泳いでいた。--あんたには関係ないよ、と心でつぶやいた。

 長野は反省している表情。本音はわからない。オレは長野を凝視した。するや否や、
 「悪気はないのですが…」と。すかさずもう一発。
 「すみませんでした」
 「これから謝る回数は増えそうですね」
 「何に、誰にです?」

 分からない。

 言ったはいいものの、確かに分からない。コイツが今後、オレを「謝らせる」立場に回る可能性も大いにあるわけだ。狭い視野でしか見られていなかった。

 オレはそのまま黙り込んでしまった。自分で何を言ってしまったのか、自分でも消化不良なまま。感情に身を委ねて殴っても意味がない。と、思いをめぐらせていたら、警察庁が見えてきた。

 「そこ左」とぶっきらぼうに伝えた。

 庁内に入る。着いている電気の色は、灰色に薄暗い。戦後の尾を引いているのか、寂れた空気感が漂う。辟易し切った空間。内部の警官たちは屈強そうだ。もしくは疲労が溜まりすぎて、そう演じざるを得ないのかもしれない。

 屈強なアリのような警官たち--ハムとは別組織の警察庁の面々は、新たな来庁者を訝(いぶか)しげに眺め、長野と気づいた瞬間、引き締まった表情でこちらに歩み寄ってくる。

 「事件ですか、事故ですか?」と一人の警官。
 「暴行事件です…」と長野。
 「ご一緒の方は」もう一人。続けて後ろには三人いる。
 「発見者です」と返し暴行に関与していない、ただ偶然、殴られた人を助けに、ここに連れてきた、お人よしを演じた。見抜かれているのだろうが。
 「手当は…」後ろの三人のうち一人の、若者が訊いた。
 「してない状態にあると本人は言っています。先に、こちらに行きたいと」

 警官たちは妙だな、と疑いの目線を向けていた。最初に声をかけた警官を除いた警官たちは、後ろに下がり、内緒の話をしている。おそらく、長野が議員と気づいたのだろう。

 なぜ病院ではなく警察庁なのか--。どうやらそこが引っかかるのだろう。

 警官一人がオレをじっと眺める。その目は疑いに満ちていた。

 「別室でお話しをのちほど伺ってもよろしいでしょうか」
 「はい。発見者としてご協力できましたら」
 「あなたがねぇ、加害者って可能性も」
 「否定しませんから」と言った直後に、長野の足を払い身体を倒した。長野が、硬そうなフローリングに倒れた。その音は大きく、地響きがした。

 「大丈夫ですかッ!」と長野に声をかけ、容態を確かめていた。チャンス。そのスキに思い切り警察庁の出入り口の方へと駆けていった。追っ手が来るのでは、と警戒したが追って来なかった。長野のケアに専念していた。

 難なく振り切れた。

 とはいえ、走って逃げていても、デコたちに追いつかれるのも時間の問題。どうするか?とにかく走るしかない。走るんだ。何年ぶりだろうか。無我夢中に走り逃げた。

 車の走行音が聞こえる。後ろから光に照らされ、オレの影がコンクリートに浮かび上がった。

 車は接近してくる。鼓膜が走行音を拾った瞬間、毛穴から、冷や汗が一気に流れた気がした。後ろを見た--。パトカーではなく坂本のアルファード。運転していたのは面識のない男だ。

 「早く」と言い、手際よくハムの手帳を見せた。ホンモノかどうかは正直、どうでも良かった。とにかく警察から逃げ切れればいい。オレを拾うのが筋モンでもなんでもいい。

 そう思えるほど余裕がなくなっていた。

 車の中に入った。その男が告げた目的地は、例の居酒屋。「すみませんね。驚かせたのと長野を連れて行かせることになってしまい」と言ったあとに「帰りなら拾っても問題はないとの判断で、坂本さんから指示がありましてね、迎えに行けと。行きは長野さんもいて騒がれるのもバツが悪いのでね」
 「なんだ、そういうことか…」
 「疲れたでしょう。居酒屋行ってひと休憩しましょう」

 警察庁から居酒屋へ向かう時の空気感は、その逆の時より異なっていた。--安心できはするものの、警戒心が解けない。警察庁に行く時の緊張感とはまた別の類の気持ちが、渦を巻く。

 「ここら辺でいいよ。外の空気を吸いたい気分だ」
 「それではここで」と、謎の男は告げ爽やかな笑みを浮かべ、去って行った。

 居酒屋から少し離れたところにいるが、視界には入る。

 最初に見た時とは違う印象を受けた。この居酒屋は、オレが中にはいるのを拒んでいる。長野を連れて行った時は、吸い込むような空気を醸し出していた。一方、今では「来るな」と建物が訴えかけている--。

 そんな気がした。

 ここで一体今さら何を話すのだろう?ここで今さら何を追及するのだろうか?疑問符は連なる。

 谷川に坂本--。利害の一致で動いたもの同士だ。オレは?確かに利はあった。長野から受け取った金額は大きい。同時に、ハムに全面包囲される結果になったと、拡大解釈できもする。

 受け取った金額と引き換えにオレは居場所を失ってはいないだろうか?そう思えてきた時に、中に入るのを躊躇した。坂本から渡された携帯電話には証拠が詰まっている。これを聞けばすべてが解明される。

 つまるところ、だ。

 店内に行く必要がないのでは、と思えてきた。自分でもなぜそのような行動をとったのかよく分からないが、立ち尽くしたまま、携帯電話のメッセージ内容や写真を眺めていた。

 内容はこう--。

 長野が三上に娘の殺害依頼をした。見返りに、老朽化した後援会の改装工事を、憎堂一家のフロント企業に発注するのが条件。事務所の備品も三上のフロント企業から高値で仕入れるよう指示。依頼料とは別で口止め料を三上が請求。

 オレは憎堂一家の目の敵。あえてオレに依頼するよう、三上が長野に指示--オレをツブすハラでいたってわけだ。

 すべてがくだらなく思えた。携帯を思い切り投げた。

 長野と三上の利害関係の間にオレがいて、利用されたわけだ。この稼業に勝ち負けはない。事件が片付けば、それでおしまい。シンプルな話だ。ところが、今回ばかりは「負けた」ように思えた。

 きびすを返すように、そこから戻ろうとした。どこへ?戻るといっても事務所なのか--。歩くか。どこへ向かうのか、知ったこっちゃない。降りしきる雨が、アスファルトに打ち付ける音の耳障りの良さに、安堵を覚えた。心地いい音のするほうへと進むか。

 その方面はわからなくても、歩みを止めないことにした。

 頭の中で、Red Cafeの"Heart and Soul of New York City"がリフレインされる。

 "I walk the walk name ring-bell from da south    
   to north, Wut else? That's how I do I'm da    
  'Heart and Soul of New York City'."

「歩を進める。電話は西から北から鳴るけど 何の用かわかんねぇな で? そんな調子だ 俺がニューヨークの看板だ」

 --オレは何を背負ってきたんだよ。

 雨音の心地よさと、自問自答するいら立ちとが、胸で渦を巻き、オレの喉元に上がってくる。締め付けられそうだ。痛みに襲われる気がしながらも、その痛みに、きっとオレは安堵を覚えるのかもな。--情けねえ。

 とにもかくにも、もう戻らない。それだけ。巻き戻すな。

 この稼業をやめて、街からも消えるタイミングかもしれないな。けれどオレは他に何ができるっつうんだよ。

 今思い返せば、だ。「捨てる」連続だったのかもしれないな--地元を、友情を、妻を、責任を。結果、オレは現実から逃げてたってことか。

 惨めに思えた。とはいえ惨めさに酔っている自分はもっと汚ねえ。心地いい雨音は慰めちゃくれない。喫茶店の店長と会う予定の夜10時はとっくに過ぎていた。

 どうでもいいんだ。

 全てが筒抜けなんだしな。話す必要もない。何を得ようとしてきたのか--捨てる、逃げるための材料の数かず。オレはこざかしい選択を連続してきた。愚かモンよ。笑うなら笑ってくれ。

 自分で自分に同情するだなんて、自己陶酔に他ならないのにな。嫌悪の塊だ。そんな自分から逃げるようにして、歩いていたオレは、公園に行き着いた。何の変哲もないただの公園。

 この先だ、オレが考えんのは。この街で利用され続けるのか、もしくは遠くへ、また逃げるのか--。二者択一だ。答はシンプル。だろう?

 計算しようとして動いた結果、野球賭博で負けたんだっけ。柄にもないことをするからだよな。自分らしい行動が打算した行動より、いい結果に転じるってのは、「負けて」分かったんだ。

 --直感に従うか。遠くまで、どこかへ、そのどこかはわからないにせよ、這うように進むか。どうせ先行きは見えている。どこに居たって、オレは肩身の狭い思いをするだけなんだから。

 と、自問自答していた矢先に、だ。まさかのことが--ナツミが現れた。どうして…

 「もう筒抜けなの。分かってるでしょう?あんたは親友のジュンを裏切って捨てた。違う?でもいいの。ジュンは許しているから。戻る最後のチャンスよ。もうこうなることはみえてたんだし。戻るかがんじがらめに生きるか--あんたはどっちを選ぶの?また『逃げる』のかしら?」

 事実だ。本当のことは、まるで凍ったナイフのように心を突き刺す。鋭利なナイフでえぐられた気分だ。

 「で、どうすんのよ?ジュンと精算すんのか、みっともない生活でもすんのか。もっかい言うわ。今なら戻れるのよ」
 「まとまらない。先のことなんて分かりゃしない。気が向いたら戻るさ」

 呆れた表情を一瞬見せ、すぐに背を向け、ナツミさんはそのまま去って行った。何も言わずに。

 オレはちっぽけな空を睨んだ。怨みなどないのに。

 「巻き戻すか」--「どうせ三上がそうされたように、オレも殺されるんだろう。風呂敷を広げすぎたのかもしんないな」。小声で放ったひとりごとが、宙に浮かんでゆくように思えた。

 夢だろう、とどこかで期待している自分がいた。頬をつねった。痛みが走る--。これは現実なんだ。

           (了)

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