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『鱒を詠(よ)む』



ビート世代の文学運動
ーーR・ブローティガン前夜


アメリカにおけるビート・ジェネレーションに、流行したものごとの一つに文学が挙げられる。ビートーー定義はさまざまだが、1940年代〜60年代後半とされるーーの後半から終わりにかけて、活躍したものの埋もれている、名作家を紹介したい。


 リチャード・ブローティガン(1935年ー1984年)という作家を取り上げる前に事前知識として、ビート文学とはなにかーー。

ビート世代・ビート文学に迫る

先述の通り、40年代-60年代に興隆した文学運動を示すと言っても過言ではないだろう。戦後の喪失感やベトナム戦争に反対する反体制的な動きを、文学に落とし込んでいる。代表的な作家は、ウィリアム・バロウズを筆頭に、アレン・ギンズバーグ、ジャック・ケルアックなど。同世代に活躍したのがノーベル文学賞を受賞した、ボブ・ディランでもある。

 W・バロウズの代表作とされる『裸のランチ』は文脈も何もない。ただ、あるのは、斬新な手法ーーカットアップのみ。その手法は関係のない単語をつなげ合わせ、文章を構成するものだ。

 J・ケルアックの代表作は『オン・ザ・ロード』とされている。物語はいたく単純ーー。ひたすらアメリカ国内の旅を進める。その描写に尽きると思わせるようだが、時代の風俗が記されてもいる。

 A・ギンズバーグの名作として挙げられるのが『吠える』だ。散文詩であり、内容を理解するのは難しいと思える。一方、ビート世代に漂う、閉塞感や憤りを直接ぶつけるような文体でもある。

リチャードブローティガンーー創作と苦悩

上記のようにビート文学は従来の「型」を破った、新たな文学の開拓であり、否定と再構築が主軸にあったと思われる。小説における「コード」(話の起承転結など)を度外視した文学運動と位置付けたい。

 その延長線上に冒頭に挙げたR・ブローティガンがいる。かれはビート文学の終焉ごろに小説を出した。ビート文学の騎手として挙げられないものの『アメリカの鱒釣り』は有名である。

 同書は短編集となっている。「一般的」な十数ページに及ぶ短編を集めたものではない。なかには、ほんの数ページで終わる短編もある。目まぐるしく、別の話へと続いてゆく。

 何より印象的なのは、飛躍した擬人化。「モノ」が擬人化し語りかける、話が突拍子がないといった具合に、一言で片づけるのなら「意味が分からない」のだ。

 ここにビート文学の名残りを見出す。あいにく、かれが出版を重ねたのが、70年代以降であったためか、ビート世代のアイコンになれなかったと言えるだろう。ブローティガン本人が感じていたかは不明だが、読み手にはどこか、ビート世代の作家になれなかった挫折や悲壮感が著書から伝わってくる。

ナラティヴ(物語)のないコード

R・ブローティガンの小説には起承転結の「起」がないと言ってもいいほど、話の筋がない。もちろん「結」もない。脈絡のない話が延々と続いてゆくのだ。話に一貫性はないく「突拍子」がない。そのひと言に尽きる。

 ナラティヴの体(てい)をなしていない。ーー訴えたいことを思うがままに綴る。それだけなのだ。『バビロンを夢見て』(1977年)を一例に挙げる。

 探偵小説との設定になっている。ところが内容は、「バビロン」に取りつかれた「へんてこ探偵」の話である。ハードボイルド小説を書く、レイモンド・チャンドラーのそれとは、大きく異なる。

期待しない楽しみ

読者は多かれ少なかれ「〜小説」というジャンル分けから、イメージを抱くきらいがあるのではないだろうか。「探偵小説なら犯人がいて、真相は・・・」と言った具合に、シナリオを展開してしまう。

 ところが、自身の展開する筋書きはR・ブローティガンの小説をめくっていくうちに砕けてしまう。というか、期待を裏切るよう、あらかじめ設定しているように思えもする。打算なのかは分からないものの、異質性を感じさせるには十分すぎる。

 特有な感覚ーー地に足のつかない浮遊感を日本に持ち込んだ作家を紹介して締めくくる。高橋源一郎だ。代表作とされる『さようなら、ギャングたち』のタイトルから「ギャング」を想起をしても、話の内容に驚かされる。ーーギャングとは全く無縁の内容だ。

タイトルと中身の裏切りを通じて、色メガネで眺めることのない、活字の鮮度に魅惑されるのかもしれない。





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