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ときには「安心感」を手放してみる

あ、ハンカチ忘れた。仕事場に向かっている今朝、家を出てわりとすぐに気づいた。どうしよう、引き返そうかな…と迷えるくらいの距離。引き返そうか迷いながら、でも歩き続けてみる。ちょっとだけ歩みがゆっくりスピードになったりして。わたし以外だれも気づかないくらいのスピードダウン。
結局、引き返さないで忘れたまま出勤することを選んだ。選べたら、また歩みのスピードは元に戻る。かつかつかつかつ。今日の靴は英国紳士が履いていそうな、ソールのがっしりしたローファー。もっと厚底風のが流行りだけど、わたしのは数年前に買ったもので、いかにもトラッドなやつ。

選べたらまた歩むことができるのだ。
ハンカチがないのは心細い。ハンカチ大好きだ。タオルハンカチも。ふつうのタオルも。寝るときはライナスの毛布よろしく、タオルに顔をうずめて眠る。仰向けで眠るのが苦手なわたしは、うつ伏せて文字通りタオルに顔をうずめるか、横向きの顔にタオルを被せるようにして眠る。顔が隠れると安心する。

タオルの中の世界は暗いけれどやさしい。外の世界からわたしを守る木綿のベール。ベールっていう響き、いいな。夏の外出時の日傘とか、冬のマフラーとか帽子とか、それらもわたしにとって大切なベールだ。夏のベールアイテムは日傘しかないなと思っていたら、先日あるひとがスカーフやショールもいいねと助言をくれた。バッグの中にハンカチとスカーフ、これは最強では。肩や首元にさらっとスカーフを巻いたら、カーディガン羽織るより淑女っぽいし。お年頃だしそろそろ淑女を目指そう。

目指せ淑女…なんて言いつつ、でも、あ〜ハンカチないよ〜、と、引き返さないことを決めたのに頭の中で二分くらいうだうだした。こんなことでうだうだするなんてね、わたし、どれだけ些細なことに悩みやすいの? 他に考えることないの? いや、あるけど、ただただ小石につまづきやすいだけなんだ。

公共のトイレにあるハンドドライヤー(ジェットタオル?)が苦手だ。手を近づけるとブフォーーーと大きな音を立てるから。数秒~数十秒で手を乾かすには強い送風でないと無理なのだろうけど、あの無遠慮な音は体に侵入してくる感じがして、ほぼ使ったことがない。コロナによる制限が多岐に渡っていたときは、ハンドドライヤーも使用不可である場所がほとんどで、ほっとしたのを覚えている。
ハンカチを忘れるということは、ハンドドライヤーを使うかもしれないということなのか…憂鬱になるほどのことではないけれど、一滴の墨がぽとりと落とされたよう。

実は最近ハンカチを忘れ(そうにな)ることが多い。
なぜか? それは「当日、今日使いたいハンカチ」をわざわざ選ぶようにしたから。
これまでは「忘れたくない」という気持ちを優先して、ハンカチは前日にバッグに入れるなど準備をしていた。小学生の頃、夜になると明日の日課を揃えてランドセルに詰めていたように。「忘れたくない、早く準備して安心しておきたい」と、一刻も早くそわそわ感を静めておきたかった。…こうやって書くとなんだか大袈裟だけど。手っ取り早く安心感が欲しくて、「何にしよう?」と選ぶこともなく、ぶら下がっている洗濯物からぱちんと外して、(必要なときはアイロンをかけて)ちゃちゃっと畳んでバッグに収めていたのだった。熟れている順にりんごをもぎ取っていくみたいな機械さで。

あるとき、「自分を大切に扱う」ことのひとつとして、「今日一日使いたいと思うハンカチをちゃんと選ぶ」ことを思いたった。これまた大袈裟なんだけど、まあそういうこと。そういうことを思いたつ自分は好き。きっと好き。
ハンカチは朝、出かける前に選ぶことにする。抽斗を開けて「どれにしようかな」と眺める時間を作る。時間ったって数十秒もかからない。

けれどまあ、習慣というのは恐ろしいもので、前日に無意識に準備してしまうことがあった。と言っても、それはハンカチを確実に持っていけるという点で結果的には問題ないのだけど、その逆のときが、今朝のようなこれ。朝準備を忘れると、ただハンカチを忘れるリスクだけを負う。

「忘れたくない」を優先するか、「使いたいハンカチ」を優先するか。わたしにとってこの事案は究極の二択なのだ。自分を安心させるためにわくわくやうきうきを犠牲にするか、リスクを孕んでいてもその日その時感じるわくわくやうきうきを大切にするか…湧き出る井戸水の音に耳をすますように、この問いをいまのわたしに投げかけてみる。
正直な気持ちに沿って、それでハンカチ忘れたのなら、それはそれで正解のひとつのような気がする。
いいぞいいぞ、こういうわたしも。

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