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やりたいことを仕事にする

社会人になってからこんなに仕事のことを考えたのは、この七月が初めてだったかもしれない。
「仕事のこと」というのは「現在の仕事の内容」という意味でなく、「生きる上で何を仕事にするか」という意味で。

六月から、新たに勉強を始めた。お金を払ってスクール的なところに所属し、内容は多岐に渡るものの同じ目的を持つひとたちと一緒に勉強をする。弱くない意志を持ってこのように継続的に学ぶのは、大人になって初めての経験だった。様々な年代のひとと一緒に学ぶことはとても刺激的だった。もうしばらく続くので、厳密には現在進行形。
わたしがいま学んでいることは、学生の頃からずっとやってみたい、形にしたいと思っていたことだ。やってみたいな、でもそれなりに忙しいし、お金を払って始めるほどの覚悟はないな、という位置づけだったもの。やってみたいけれどうまくいくかわからないし、失敗は怖いなと自分の欲求に対して見て見ぬふりをしていたもの。
性格上、わたしには悩む時間が平均より多く必要なのだろう。でも、機が熟せば、ぽんと行動に移せる性格でもある。おそらくそのようなタイミングだったのだろう。

ゆくゆくは仕事にする、という目標を視野に入れて勉強を始めた。「やりたいことを仕事にする」。改めて言葉にしてみると、ありふれてはいるがなかなか魅力的だ。でも、それはわたしにとって(意識的にか、無意識的にか)長らく避けていたことだった。

◇◇◇

わたしの両親は、おそらく「やりたいことを仕事に」してきたひとたちなのだと思う。

父は、新聞社を経て出版社、そしていくつかのテレビ局で働いていた。最後は地元のテレビ局だった。どの会社も、どの仕事も、たぶん彼が自己実現をするための場所(手段)のひとつとして最適な場だったのだろうと思う。身内が言うのも気が引けるけれど、独特の文章を書くひとだったし、ありふれた物事に関しても、おもしろさを発掘する才能のようなものを持っていた。それに、真実(と彼が信じていること)に対しておそろしく執着のあるひとだった。このような性質・特性により家族が振り回されることは多々あったが、仕事場では、それらの良い側面が遺憾なく発揮されたのかもしれない。

長続きせずすぐに辞める、というほどではなかったけれども、まだまだ「ひとつの会社に勤め続ける」ということがわりと当たり前の世代の人間にしては、転職を繰り返した部類なのではないだろうか。
辞め方も、いつも突然だった。たいてい、誰にも相談せず、ひとりで決断して事後報告だった。
母から「ねえユウ、お父さん、先週会社辞めてたって知ってた?」と告げられ、「ええっ? そうなの?」「先週辞めてたらしいよ、今朝聞いた」というような会話をしたのも一度ではない。幸い母も仕事をしていたから、すぐに生活に困るということはなかったが、初めてそのような会話をしたときには子どもながらに動揺した記憶がある。
突飛な失業も回数を重ね、わたしたちの反応は「ええっ?」から「え?」になり、「あー」になった。「先週からプータローだって」「あー」「しばらくお弁当作らなくていいわ」「アイロン掛けもしなくていいね」。アイロン掛けは小学生の頃からわたしの仕事だった。母の唯一嫌いな家事だったから。

一度だけ父に聞いたことがある。最後から二番目の仕事を辞めたとき、「なんで辞めたの?」と。勤めていたのは、比較的大きなテレビ局だった。
「本社に行ったら殺されると思ったから」と父は答えた。
はああ? と思ったのを覚えている。行ってもないのに、何を言っているんだこいつは。勝手に辞めやがって。逃げる気かよ。わたしはまだ十代後半のガキだったのに、仕事の「し」の字も知らなかったのに、偉そうにそう思った。彼が失業したからと言って実際的な負担は何も背負っていなかったけれど、母の苦労を(勝手に)思ったり、家庭内のごたごたも一緒くたにして、父に怒りを覚えたのだろうと思う。
確かに、当時の父の仕事は大変だったと思う。仕事柄、時間は不規則で、深夜も早朝もあったものではなかった。と思う。よく考えたら、そもそもいつ出社して帰宅しているのか、わたしは覚えていない。

後から母に聞いた話だけれど、そのとき、どうやら本社への異動辞令が出そうだったらしい。ただでさえ、ここでさえこれだけの仕事量、本社など行ったものならどんな仕事が待っているかわからない。仕事に、会社に殺される。そう思って決めたのだと。
やりたいことを仕事にしたはずが、仕事に人生が左右されてしまう。そんな本末転倒を避けた彼を、わたしはそのとき「逃げたやつ」だと思った。
けれども、その仕事を辞め、彼はまたやりたいことを仕事にできる場を見つけ、就職した。キー局から遠いところであるそこで、彼はどこまで自分を発揮し、やりたいことをやり、楽しめたのかはわからない。しかし、少なくとも「仕事に殺される」という事態は避けられた。避けられたことが彼の望みであったなら、前職を辞めたのは彼にとって正しい選択だったのだろう。「やりたいことを優先する」という願いは成就されたのかもしれない。

◇◇◇

母もまた、「やりたいことを仕事に」してきたひとだ。現在もそうである。もしかすると父よりわかりやすい形態かもしれない。
母は音楽に関する仕事をしている。ピアノや声楽を教えたり、合唱などの指揮・指導をしている。わたしも長らく指導を受けたけれども、芸術や文学の道を究めているひとたちの多くがそうであるように、母の音楽に対する熱意は妥協を許さないものがあった。相手が子どもであっても容赦はなく、厳しすぎて離れる生徒はいくらもいた。同じフィールドでは敵もたくさんいた。

「絶対に曲げたくない自分の音楽、というものがあるのは、こんなにしんどいことなんだな」母を見て、わたしはそのようなネガティブ感情を持っていた。敵がいようがいまいが、母は特に気にしていない様子であったが、子どものわたしは結構ハラハラしていたし。「ああ、○○先生、お母さんに挨拶してくれなかったよ、嫌われちゃったのかな」なんて。

でも、よく考えてみると母はずっと器用なところもあった。
例えばそれは大学に勤めていることだ。大学での彼女の素行は知らないが、長きにわたり常勤講師を務めているということは、クビや左遷ということにはならない程度に協調性を持ち、組織に順応しているのだろう。実際、会議などでの発言では空気を読んでいるようだった。「あの場では××と言っておけばいいのよ」とか、「△△先生の言うことに従っとけば間違いない」とか。
また、演奏する場でも、うまい世渡りというのか、処世術のようなものを利用する場面もあった。「このコンクールの審査員は誰々だから、自由曲はこれが受ける」とか、「この曲はここの部分ができれば八割は評価してくれる」とか。
そのような言動を見てわたしは、母らしくないとか、なぜか無性に腹が立つ気持ちが湧いたりした。しかしそれは、母が継続的にやりたいことを仕事にするための自己防衛というか、ある種の手段だったのだろうと思う。

母は、自分の音楽の中に、「人生をかけて究めていく芸術」と「生きるための手段」とがバランスよく存在しているのだと思う。どちらかに傾けば、きっとしんどい。それがわかっていたから、うまくやる部分と曲げない部分のバランスをなんとなく肌で調整して、妥協のストレスを溜めないように生きているのだと思う。

◇◇◇

なんだかすごく大げさに書いてしまった感もあるけれど、さて、わたしはどうする?
巨大企業の美容職は、末端ではあるもののやりがいもあるし誇りもある。好きな仕事ですか? はい、好きな仕事です。でももちろんそれらがすべてを満たしてくれるわけではない。企業の会社員なのだからとか、身の丈を考えろ、など言われそうだけれど、もう少しわたしはわたしを満たしてやれる仕事にチャレンジしても良いのかもしれない。
さて、そろそろステージアップ。実行するし、わたしはやれる。アファメーション。

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