山仕事の読書ノート③ 森は存在しない①

 ふと、「森は存在しない」というフレーズが頭に浮かんだので、そのことについて書いてみます。もちろん、森は存在します、たぶん(笑)。なんのこっちゃ(笑)。まぁ、しばしのお付き合いを。
 
 林業の勉強のために買わせてもらっている本のタイトルには、「森」という言葉が多い。「森づくりの原理原則」「森を育てる技術」「植えない森づくり」「森づくりの明暗」「スイス式森の人の育て方」などなど。しかし僕たちは仕事のフィールドを「山」と呼ぶし、それはまた人工林という「林」です。そして僕たちは「山師」と呼ばれる。この連載のタイトルも「山仕事」の読書ノートであって、「森仕事」ってなんかヘンですよね。じっさい、森で仕事をしているという感覚は無い。だいたい、僕たちの仕事は「林」業であって、「森」業(シンギョウ?)とは呼ばない。

森という言葉は何かピンとこないところがある。森って何?

でも組織名は「森林組合」で森が入ってる。我らが組合参事今村氏は自分たちのことを「森の民」と呼ぶし、根羽村の木育活動などを行う社団法人は「ねばのもり」だ。???。森、林、山、森林、これらの微妙なニュアンスの使い分けはなんとなく理解できるが、何かモヤモヤするものがぬぐえないし、また、そのモヤモヤのなかに、現在の日本林業の様々な課題を解決する何かしらのヒントが隠されているような気もする。とにかく、森という言葉は、日常的にはあまり使わず、使う場合は何か象徴的な意味合いを込めているように思われる。
 
 昨年、長野県林業総合センターで森林・林業セミナーを三〇日間受講し、林業の基礎的な知識と技術を教わったのですが、その中では、森と林の違いについて、こう説明していた。
 林=同じ高さの木がたくさん生えているところ(見た目)
 森=違う高さの木がたくさん生えているところ(見た目)
人工であるか天然であるか、樹種が単一か多様かは問わない、とのこと。漢字の形に則ったなかなか明快な定義ではあるが、シンプルすぎて説明しきれていないような気がする。。また講義の中では、山という言葉はほとんど出てこなかったと思う。山は、意味としては「盛り上がった地形」であって、必ずしも木が生えているわけではないから、木を扱う林業のセミナーとしては不適当な呼び方なのは理解できる。森林という言葉は頻発したが、森と林を合わせた木が生えている空間の総称で学術用語としての使用だろう。これも理解できる。山と森林に関しては、ここでいったん議論から退出してもらおう。
 
 森と林の違いについて自分も調べてみたが、何かの本に書いてあったものでは、
 林=生やし 木が生やしてあるところ (見た目 人工性?)
 森=盛り 木が繁って盛り上がっているところ(見た目)
と、大和ことばの語感から定義している。これがわりと一般的なようだ。森に関しては先の漢字由来の定義よりも字づらのイメージに合っているかも。林に関しては人が植えたというニュアンスがある。また、ネットで調べてみると、
 はやし=囃し 賑やかな感じ(雰囲気)
 もり=守り 護り 守られている感じ(雰囲気)
と、もう少し大和ことばの意味合いをひろげているものもあり、より深みが出てきていて面白い。漢字から定義するか、大和ことばから定義するかの違いは重要かもしれない。林業セミナーのようなややアカデミックな場所では漢語的なソリッドなニュアンスが似合うし、日常的には大和ことばからくる広がりのあるニュアンスがしっくりくる。そして実際にはそれらが複合混在して使われているので、何かボンヤリしてしまうのかなぁ。それにしても、日本語はハイコンテクストだ。(美しくも)あいまいな日本の森。。
 
 いったん基本に立ち返って、辞典をひいてみよう。ちなみに()内は筆者が付け加えたもの。
 林=①木がたくさん集まって生えているところ(見た目)
   ②同類のものが立ち並んでいる状態(見た目)
 森=①樹木がこんもりと生い茂ったところ(見た目)
   ②神社がある神域の木立(特定の場所)
ここでようやく森②として、いわゆるおなじみ「鎮守の森」の登場だ。「守・護」としての「森」。調べてみると、現代の辞書ではこの意味は二番目の扱いになっているが、歴史的にはむしろ、森という言葉はふつう鎮守の森をさす言葉だったようだ。万葉集で使われている「もり」はすべて鎮守の森を意味しているらしい。その場合、漢字としては「杜」という字も使うが、その漢字の本来の意味はヤマナシという植物を表すもので、字づらが「木に覆われている社」のイメージにあっているので日本独自の使われ方がされるようになったとのこと。しかし、なぜ、いつから、鎮守としての「森」が、たんにこんもり生い茂った「森」に取って替わられてしまったのだろう?

さて、これまでの話をまとめてみると、日本においては、
 林=木がたくさん生えている場所(身近、日常的)
 森・杜=厳かで霊的な林(必ずしも盛り上がっている必要はない)(やや非日常的、特別)
だいたいそういうふうに言えると思う。つまり、一般的に木が生えている場所を林と言い、その中でも霊的な意味合いを持つものが森であると。現代においては、「市民の森」と言ったようにややライトな使われ方がされるが、そういった使い方の中にも、「市民を守ってくれる林」というニュアンスが感じられあながち間違ってはいなさそうではある。しかし軽薄な感じもぬぐえない。

 ここまで来て、森というものが、少しだけ「存在しなくなって」きた。かな? 少なくとも昔ほどは。。
 
 最近読んだ本で、面白い説があったので紹介したい。四手井綱英さんという林業に関わってきた学者さんの説だ。

 森林をモリやハヤシと読んだのは日本人だけだ。日本人は、古い時代に森をモリだと思い込んでしまった。しかし、中国語では「森」は「深」と同じ意味のシン(深い)という形容詞だった。森林はモリやハヤシではなく、「深い林」だったのだ。現在日本で名詞に用いている「もり」は形容詞だった。(略)そして「森」は日本では頂上まで森林で覆われた山の呼び名で、おそらくは神の住むところであって、平野部の人々が仰ぎ見て収穫を祈り、平穏な生活を願望したのであろうと思われる。(「森林はモリやハヤシではない 私の森林論」四手井綱英 )

少し整理してみると
中国では
 森=深いという意味の<形容詞>
 つまり 森林=深い林
日本では
 もり=山頂まで木に覆われた、神様の住む山 <名詞>
ここで再び漢語が登場、いったん退場してもらった「森林」「山」も復活してきた。日本の「もり」は、やはり「神様が住む」という霊的な意味合いが付与されています。とくに「もり」は「はやし」ではなく「やま」の一種であるという点に注目したい。先に僕がたどり着いた、もりは霊的なはやしであるという考えと若干の相違があリます。日本古来の山岳信仰が関係していそうです。そしてもっと注目すべきは、漢語でも林は名詞ですが、森は形容詞であるということ。形容詞であるということは、そこから受けるある感覚(暑いとか寒いとか、高いとか低いとか)を指しているのであって、実在する何かを指しているわけではないということです。つまりその観点において「森は存在しない」と言える(キター‼︎)。少なくとも目に見えるものではない・・・
「もり<名詞>」に「森<形容詞>」という漢字を当ててしまった事による齟齬と、そこからくる意味的混乱。しかしまたそこに、古代人の素晴らしいセンスも感じられるような。。

 ちょっとよくわかんなくなってきましたかね(笑)さらに論考は続きますが、いったんブレーク。
関係あるかどうかわかりませんが、お茶うけ代わりに有名なことばを引いておきます。

美しい花がある。花の美しさなどというものはない。(「当麻」小林秀雄 )

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