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人相は顔に出る

2020年は歴史上最も人が運動をしなかった1年になるのだろう。世界中の人が自宅に篭り、鬱々とした日々を過ごすことを余儀なくされた。人々は運動不足に陥り、代償として様々な健康リスクが増大することになる。将来的にこの運動不足が医療費という形で我々に降りかかってくるのだろう。


最近「太ったね」とよく言われる。言われるまでもなく本人も自覚をしていて、なんとかしなければと思っている。原因は明白で、昨今の在宅勤務と晩酌の増加分がそのまま体重に跳ね返ってきているのである。

夜の炭水化物の摂取を控えるようにしてみたり、朝食をバターコーヒーに置き換えてみたりと涙ぐましい努力をしているのだが、如何せん運動量も増えず、晩酌もやめられないのだから効果はお察しのとおりだ。


子供が生まれる前は卓球をしていたので、かろうじて体重をキープすることができていた。週末に大会に参加したりするとカロリー消費量も凄まじく、その足でチームのメンバーと居酒屋へ直行し、反省会と称した飲み会を開催していた。利用するのはもっぱら安居酒屋チェーン一択で、雑多な雰囲気と良心的な価格設定が、杯を重ねる後押しをしてくれる。

運動後に乾いた喉を潤すビールはなぜあそこまで美味しいのだろうか。様々な酒を飲むようになったが、運動後に飲む酒はビール一択だ。安居酒屋にビールとくれば、必ず誰かが餃子を頼む。餃子の提案は必ず通る。餃子は焼き鳥のように取り分ける必要もなく、皆が平等に分け合って食べることができる。その上、必ず安いのに嫌いな人がいない万能選手である。


大阪に住んでいた頃のある夏の日、近所の大阪城公園で餃子フェスなるものが開催されるというので妻と二人で行ったことがある。会場に着くと、だだっ広い砂地の運動場にテントがいくつか並んでいるだけの会場に人がごった返していた。どのテントも既に大行列で、試しに空いていそうな列に並んでみたのだが、遅々として進まない列に炎天下の日差しが容赦なく浴びせられる。ようやく餃子にありつけた頃には気持ちが萎えきってしまっていた。

しかし今日は腹いっぱい餃子を食べるぞ!という気持ちなのに一皿だけというのは味気ない。どうしたものかと思案していると、近所に餃子チェーン店がたくさんあることを思い出した。そこでその日は一日餃子チェーン店を食べ歩いてみることにした。

何店舗も食べ歩いて最後にたどり着いた店は、餃子と言えばここ、という一番定番のチェーン店だった。既に腹も膨れている状態だったが、ジューッという音とともに運ばれてきた王将の餃子は、その日に食べたどの餃子よりもダントツで一番美味しかった。妻も同じ感想だったらしく、その日食べた最も安い餃子が一番美味しいと感じるとは、夫婦そろってなんとも都合が良い舌をしているなと苦笑いをしてしまった。


大学院の卒業旅行でインドに行った。本当はヨーロッパに行きたかったのだけど、とにかくお金が足りなかったので有り金で行ける最も遠い国、ということでインドを選んだ。金欠旅行なので、現地でも必然的に安宿・安列車を選択することになったのだが、それが功を奏して生々しいインドを垣間見ることができた気がする。

インドでは当然カレーをたくさん食べたのだが、ブッダガヤという町のマウンテンカフェという店で食べたモモという料理が最も印象に残っている。カフェという名前だが、実態は土の上に立てられたテントづくりの空間に机と椅子が並んでいるだけだ。テントの壁に申し訳ない程度に飾られたブッダの絵とダライ・ラマの写真が、この町が2500年前にブッダが悟りを開いた町だということを思い出させてくれる。

モモはチベット料理の一種で、皮が厚めで具に羊肉が入った水餃子といった趣の食べ物だ。羊肉の臭みが強くて好き嫌いが分かれそうな味なのだが、自分は日本では食べられない味の新鮮さと餃子然とした佇まいからくる懐かしさが相まって腹いっぱい食べてしまった。


昨今の外出自粛ムードの中で、我が職場もご多分に漏れずフルリモート勤務となり、休日も近所しか出歩かない日々を過ごしていた。子供が生まれて減少していた外食もますます回数が減り、こってりとした料理が随分ご無沙汰になっていた。

ある日、家族3人で近所を散歩していたところ、天下一品の前を通りかかった。見てみるとラーメンのテイクアウトがあるらしい。夫婦で顔を見合わせ、あうんの呼吸でラーメンをテイクアウトした。意気揚々と帰ろうとしたその時、王将の前を通りかかってしまった。抗いようがない引力で王将に吸い寄せられた我が夫婦は、王将の餃子と天下一品のラーメンをベビーカーに下げて帰途についた。

そもそも本来ではありえないオールスターのような組み合わせを味わえる幸せに感謝しながら自宅で調理して食べた天下一品と王将は、こんなに美味しいものがこの世にあって良いのか、と思えるぐらい美味しかった。


こうやって振り返ってみると、餃子という料理は、なんと安定感を持って幸せを与えてくれるものなのだろう、と感じる。餃子のない人生でも特に困りはしないが、なんだか少し味気ない世界になる気がする。餃子が存在するこの世界に生まれたことを感謝するほどではないが、いつもささやかな幸せをありがとう、と言いたい気持ちになる。


最近、同僚から餃子っぽいと言われた。なんだそれ?と思ったが、餃子の安心感やほっとした雰囲気を表現しているのならまぁ悪くないと思って聞き流していた。後日、何が餃子っぽいのか?とその同僚に聞いてみたら顔が餃子っぽい、とのことだった。複雑な気持ちだが、人相が顔に出ているのだろうと理解して自分で自分を納得させている。

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