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これから 2 過不足なく、ユーモアの余裕とフラットさ

自分は自分、人は人の点、自分で何とかする点、これを履き違えると前者で自分を責め後者を放置する本質を捉え損ねた空洞な悩みができる

が私の考え。

例えば動物園派と水族館派、植物園派、野鳥園派どれでも良いよね?という話。

こういうと分かるのに、別の話になると途端に動物園派や水族館派などそれぞれが焦り始めるイメージ。

私の場合悪い例で、人間関係では人は人、自分は自分を理解せず、それでいいことを自他境界が甘く、必要以上にかなり悩んでいた。
他方片付けが苦手、報酬に弱い、スマホ中毒などなんとかしないといけない部分は放置されていた。

こういうイメージ。

私は似た人が苦手。
理由は似た人が多い環境で息苦しく苦労したから。

似た人が多いからまた戦うのはこの層、という意識が強まり、行動派の自分、つまりせめて過去嫌だった分を競り勝つことで取り返そうという気持ちになる。

これも動物園派水族館派みたいな話。
ただ、苦手だから一切話しませんみたいなのは自分で何とかしようということ。

私の2つ目の目標は、”過不足なく指す”こと。

自分の人生に真剣という褒め言葉が嬉しい理由は、そのフラットさにあった。

中立は難しい。
これは自己分析記事でも書いたが、自分がすごく感じてきたことだし、七転八倒してきたこと。

必要以上に人を落とさず且つ、上げもせず。

この難しいフラットさが私が目指すこと。

ユーモアを持ちながら(余裕)、フラットに過不足なく指すのが理想。
個人的に3つの大事な要素があると思うから。

1.フラットな姿勢(変に落とそうとしない)
まずここで傲慢な層はこの中立性に欠けるから難しくなる。基本的な人の良さ

2.ユーモアの余裕
頑張り屋すぎる場合、真面目すぎるなどの場合この余裕がない

3.ユーモアの頭の回転
これってじっくり考えるより閃きの問題だと思うから、基本的な頭の回転の速さが必要。

前も書いたが因果応報は仏教用語で、善悪どちらにも使う。
それが今、何だか悪い意味で使われがちだと思う。

私が、受け身(誘われてからしか行かない)と決めて交友関係を整理しても困っていないのも、良い方の因果応報だと思う。

つまり、人に丁寧に接してきたからそれが返ってきて、困ることも起こらない。

因果応報ベース、ではないが、やはり過不足なく指すことで、過不足なく指される、つまり私の定義する居心地良さに近づくと思う。

これが私の目指す姿。


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