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丁寧に生きたいのと他人軸と

「この人生は誰のものなんだろう」
今まで他人軸だった自分を変える時、すごく説得力があるなぁと思った言葉です。

人生は当然自分のものです。
ですが、そんな当然のことが、まるで実現できていないかのような生き方をしていたというのが、正直なところです。

では誰のものだったのか?
私の場合、特定の誰かのものというより人の評価ですとか、そういったものに左右されすぎていたというのが傾向としてありました。

ところで、前の記事で、私は小学生の時の通知表を全て見直して、皮肉なことに1番つまらなかったはずの6年生の通知表によって非常に勇気づけられたことを記しました。

そこで私は自分は1.すごく保守的なこと、
そして、2.力の出し惜しみをしないでという2つのアドバイスが刺さったと言う話をしました。

要すれば、私は何をしたいのでしょうか。
上記幼少期の話、また最近の話、中高大学の話、これまでの自分の人生を振り返って総括すると、私は「丁寧に生きたい」のだなという1つの結論に至りました。

丁寧に生きたいのと、
丁寧な暮らし、はまた違うと思います。

私の場合、言語化が難しいのですが、引きで見ると丁寧といった意味です。
要は、人生整理をするとすごくつながっていて、要所要所で押さえるべきポイントを押さえられているといったような丁寧さです。

具体例も難しいのですが、これまでの記事で、私が人付き合いが苦手だったこと、人間関係で言うと割と、七転八倒だった話をしてきました。
しかし、それでも人付き合いを切ったりする事はあまりしませんでした。まぁ疎遠になる事はあっても、バッサリ切るみたいな事はしなかったし、自分でもいいことだと思っていません。

それは自分が丁寧に生きたいからです。
思春期以降は、進路は自分で決めたものとは言え、ある程度の縁でもあると思っています。
つまり、その縁をそれなりには、大切にするというのが、将来的に振り返って要は引きで見たときに丁寧に生きていると言うことになるんだと思います。

なので日ごろの日常の文脈が必ずしもすごく丁寧かというと別にそういうわけじゃなくてもいいと思っています。

ところで丁寧な暮らしといえば何を想像しますか。
私なら、キャンドルを毎晩たいて、地産地消の野菜で自炊をしてオーガニックタオルで過ごす日々です。

個人的に素敵だと思う一方で、私がいつも丁寧な暮らしをすると、今度は丁寧に生きれなくなるなと考えています。
私は器用では無いからです。

上記は日常の一コマ、要はミクロの話だと感じていて、私は似て非なる話ですがマクロ的に丁寧に生きたいなと思います。

ここでまた、以前
「あなたは自分の人生に真剣な事」というのがすごく長所であると言う風に言ってもらったことを思い出しました。

私は私の人生に真剣だからこそ、一つ一つコミュニティーの、よく言えば、縁をつなぎ、悪く言えば利用したいと思っています。

反省もあります。
自己実現のために、人やコミュニティーを多かれ少なかれ利用してしまったこと、すごく悪く言えば踏み台にしてしまったこともあります。
この技能身に付けるために、ここと仲良くみたいなイメージです。

折角だからを枕詞に、人の気持ちを考えなかったなぁと言うふうに反省しました。
良くも悪くも、人に対してあまり興味がなかったなと感じます。

小学生の時、GReeeeNのキセキという歌を合唱したり合奏したり個人で笑歌ったりしていました。(年齢が、、ばれるかも、、)
説法なんじゃないかと言う位たくさん聞いてたし、たくさん歌いました。

当時は意味はわかっていたんですけど、大して刺さらずで、15年ぶり位にきいて大変良い曲だなぁと思いました。
今もこんなに〜や最後の1秒までとかが刺さらないんですよね。生まれて数年の子供だったので笑

理由はメロディーもいいんですけど歌詞が結構素敵なんですよね。

私の考え方に結構近いんじゃないかなと思っていて、キセキがミラクルMiracleのほうの奇跡と、トラジェクトリーTrajectoryの方の軌跡と掛けてるんですね。
ここまで共に歩んだり、まぁ何か出会ったりしたこと自体が奇跡ミラクルだしその歩んできた道がトラジェクトリーであると。

軌跡だし奇跡だなみたいな。
いや上手な曲だなと言うふうに思いました。

私もほんとにそうだと思っていて、
何かを目指していたとして、その目標の道中(軌跡)であった人との縁は奇跡だなと。

ところで、以前出した幼馴染Bと私は作文を受賞しています。
話も書きも言語化能力の高い子でした。
私は文章はまだ良いけど、普段のお話は大変苦手でした。
中学高校で、お話の言語化の大切さを痛いほど学んだ話は散々しました。

私は以前から記事には考え方が消去法であるという話をしてきました。つまりやることもいいけれど、やらないことを選ぶという発想も欠かせないと思います。

題名に書いた他人軸という所、誰の人生なのかというところにも繋がっているのですが、皆がやってるから必ずやらなくちゃいけないということでもありません。
誰も責任を取ってくれません。だからこそやることもそうだけどやらないことを選ぶと言う発想はとても大切です。

そういえば、私は割と勉強が得意だったので、
勉強やる人たちと一緒にいることが多かったんですけれども、
何かいつしかそれが当たり前というか、極端に言えばそうじゃ(コツコツ勉強し)ないと、人じゃない的な考え方にしないとそのモチベーションとかペースその他色々保てなくなってくるんですよね。
理由は、高校生や中学生でも経験できる楽しい事は世の中たくさんあるからです。

私的に、そのような考え方の狭窄ぷりがすごく危険だったなと思っていて、
そもそも、この人生ってどういう誰のものでしたか、というところを考えることで改める事が出来たんじゃないかなと感じます。

元々は別に私がたまたま勉強が得意だっただけで、美術が得意なら美術をやってればいいし、要はそういう単に適正的な問題であり、それに生きそれに死ぬみたいな話でもなかったと思うんですよね。

それが他人に影響され、他人軸となり、自分軸を失い、狭窄ぶりを発揮したと。

そのきっかけの1つが、前の記事で書いたone of them になり下がるな、に代表される、”似たような人達が沢山いる環境にいてしまったこと”なわけなんですね。

最初に丁寧に生きることの定義が難しいなって言う話をしたんですけど、前の記事も踏まえ総括すると
1.縁は取捨選択しつつしっかり使うこと繋ぐこと、2.本質をおさえた言語化が、
私のいう丁寧に生きるなのかなと感じています。

明日、今日よりも好きになれるように。(GReeeeNのキセキの出だしです笑)


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