透明なはずの引き算の自分

やはりまだどこかで、自分はズレてる、おかしいと卑屈な自分がいる。

なんだかんだこの言語化できない違和感が諸々根源だと思う。

しかし、これは私だけでなくて、現代の人、小学生から大人にまで共通する課題、要はありのままの自分の存在価値を認める難しさ、だと感じる。

オケ部の話はしたが、オケ部に入っていなかったら、多分私はもっと人間関係うんと楽に生きていられた反面、所属に関して悩んでいたと予想している。
要は、どこかに所属することでその一員としての価値、反対に所属がないことに強い不安を覚えていたと感じる。

2つ考えたい。
1つ目は、やはりありのままを認めるのは難しいということ。
問題は、楽なことに聞こえる第一印象とのギャップ。
ありのままって丸裸感があり、何もしなくていい下手したらナマケモノなニュアンスにとられがち。
しかし、現代でもタダほど怖いものはない、と言われるように、それってすごく難しいことなんだと思う。
空気を見ようとかと同レベルでは、が私の感覚。

2つ目は自己分析の記事でも書いた、引き算の自分。
所属、趣味、諸々足していくのが自己紹介だが、その反対。引いて引いてその先の自分が座禅で向き合う自分。
この引き算の自分に対する嫌悪というか卑屈というか、脆さ、脆弱性は私だけでなく多くの人にとって課題だと感じる。

でも、立ち止まって落ち着いて考えたら、
みんな引き算の自分同士なので優劣も貴賎もない。
要は透明なはずの引き算の自分に自分で色をつけて、色に対して卑屈になっているのは、ナンセンスだとさえ思えてくる。

だからこそやはり、自己分析や座禅など深く考え、一旦引き算の自分に立ち返る時間は必要だと思う。

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