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愛と模倣のはざまで痛む脳を刺激する

素人ならば尚更、先人の智慧や技術を参考にするものだ。
模倣から入るのも一つの手だろう。

素人だろうと玄人だろうと、悪いのはオリジナルのふりをすることなのだ。と思う。

でも、私は模倣、とうかコピーがあまり好きではない。

例えば、音楽が好きで憧れのギタリストと同じモデルのギターを買う。
同じエフェクターを使い、奏法を真似し、好きな曲のフレーズを何度も何度も練習し、とうとうその曲が弾けるようになる。
というのは、とても素晴らしい経験だし、そうやって成長していくのだと思っている。

ある程度の技術を身に着けて人前で発表したくなった時に、大好きなミュージシャンの曲をライブで披露する。
そんなこともあるだろうし、友達であれば応援もしたい。
逆に、オリジナル曲ばかりのライブで誰かのカバーをする。
これも大好きだし、嬉しくすらある。

が、だ。
これが、本格的にコピーバンドを組んで活動します!と言われると、ん?となる。
いや、構わないのだ。音楽は自由だし、オリジナルでなくてはならない。なんてこともない。そんなことを言ったらクラッシックの演奏家たちなんか全否定だ。そんな気持ちはかけらもない。本当だ。自由にやりたいことをやれば良いと思う。
しかし、そのライブに行きたいか?と聞かれると、答えはNoである。

ここの線引きは自分だけのものなので、誰かに強要する気もないのだが、
「いや、オリジナル聴くからいいです」という気持ちになってしまうのだ。

ましてや、本人たちになりきって、「本人の代わりに聞かせてあげる」というスタンスを取られるともう無理である。
いや、それが好きな人もいるだろうし、すべて自由だ。
ただ「私は」好きではない。というだけの話である。

長々と書いていて思う。
さて、文章の世界はどうだろう。
私など素人の枠にも入らない雑魚ではあるが、
好きな文体・比喩表現・構成やら全て自由だ。
でもこれ、誰かのコピーになってはいないか?
一字一句同じなら盗作である。
多少設定を変えているが、内容はほぼ同じ。これも黒だろう。

そうでなかったとして、それが自分の色であったなら。その色が他の誰かの色と酷似していたら。
その誰かを知っていても知らなくても模倣と言われてしまうのか。

では、パロディーはどうなる。
元ネタを知らなければ、パロディー側が正になる人もいる。

許されるものと許されないものの境い目はなんだろう。
やはり、クオリティーとパロディー自体のオリジナリティ(というのも変だが)になるのだろうか。

こうして迷宮に入り込む。

痛む脳の今日のお供は、ちょっとお高めのカフェでちょっとお高めのピーチアイスティーである。
いつも通りドトールに行っていればこんな迷宮には入り込まなかったのではないか。いや、それは大好きなドトールに失礼だな。
ドトールにはお世話になっているのだ。悪口はいけない。

コピーバンドだって、行かないだけで否定はしていない。
悪口ではないのだ。

たまにこうして脳を刺激しないと老いていくので、あれこれ思考を巡らしている。それだけだ。
結論はない。

これを読んだ人には、オチのない話につき合わせただけである。

そう考えるとまた脳が痛んでくる。



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