見出し画像

重辰の先祖を振り返る②(南北朝~重辰の父の世代:戦国時代)


追記: 誤記ありー2023年10月3日

はじめに

詳細は江戸時代*1までの系譜を書いた記事をご覧いただきたい。

補足 
*1 正確には武士をしていた先祖:~江戸時代初期 1636年に原本が記載された系譜)

お急ぎの方は下記系譜をご覧いただければ幸いだ。

繰返しにはなりますが、無断引用・転載はお控えください。よろしくお願いいたします。

今回追っていく時代

今回は鎌倉時代一部(詳細な記載がないため、この記述となる)~戦国時代(1500年代前半)までの系譜を辿る。

具体的には系譜の『純之』から『重則』を辿る。

まっすぐな道なら辿りやすいのですが、整備されていなければ道も系譜も回り道が多くなりますね
誰かがやらなければいけない作業です
純之~重光は詳細が不明。

しかし、『純之』から『重光』まで。時代で言及すると鎌倉時代後期(推測)から戦国時代中期までは細かな記載は見られない。
今、原本となっている家系図自体が『寛永一三(1636)年に記載された』となっているため、遠い先祖の詳細までは分からなかったのかもしれない。これもあくまで推測でしかないが。

重辰の伯父や父の時代(1500年代初頭)に入り、ようやく多少細かな情報が出てくる。

それをひとつずつ見ていく。

重辰の伯父・鈴木重屯(しげむら)

鈴木重光の長男・鈴木重屯
鈴木小平太 後、三郎五郎
寺部之城主 日向守と改め

欠村・鈴木家の系譜より

私たち一族は寺部鈴木氏ではない(はずだ)。
しかし、このような記載がある以上、寺部鈴木氏とはなんらかの繋がりがあったと思われる。

この記載がなければ、私は、『重辰が家康公の初陣の敵将』の可能性が限りなく低いと思っていた。

重辰の伯父・鈴木重旭

鈴木重光の次男・鈴木重旭
鈴木小三郎 後、越前守と改め
竹村城主 織田信秀の幕下
天文一三年甲辰五月一三日 討死

欠村・鈴木家の系譜より

織田信長公の父上・信秀公に仕えたという記載があり。
三河鈴木氏(世阿弥殿が始祖の御一族)と系譜が重ならないため、
・同じ鈴木氏だから
・信秀公から拝領した
・信秀公の命により竹村城・城代となった など
推測は出来るが、どのような理由や背景で竹村城主をしていたのかは分かりかねる。

また、天文一三年(1544年)に討死とある。
どの戦なのかは不明(小豆坂の戦いや加納口の戦いは月日が合致せず)。

重辰の父・鈴木重則

鈴木重光の三男・鈴木重則
鈴木小五郎 後、墨右衛門と改め
桜井村に住す
松平清康公に奉仕

欠村・鈴木家の系譜より

重辰の父・重則は徳川家康公の祖父・清康公に仕えたようだ。
清康公は森山(現、愛知県名古屋市守山区)の陣中にて家臣に殺害された『森山崩れ』(天文四年一二月五日)の事象に於いて早世している。
その際に重則が何歳であったか、後にどの武将に仕えたのかは不明だ。


また、系譜に下記のような記載がある。

天文元年、藤代八橋之神社に寄て三河之国 鴫原之庄桜井村に移る。則ち八幡の神体を稲に包み守奉る。野田の郷に勧請す。それより紋所を稲穂に改む。三河に於て熊野鈴木と名乗るは是の謂れ也。

欠村・鈴木家の系譜より

「天文元年(1532年)に藤代八橋神社に寄って」とある。
先祖・清之の頃から崇敬する熊野信仰を介したご神託を受けて……と思われる。
ここで『桜井村(現 愛知県安城市)に移り住んだ』とあるが、
・父・重光も共になのか
・重則一家だけなのか
・移住元はどこなのか
そういった記載はない。

どの年代で藤代を出て三河周辺に移り住んだのかは定かではない。

また、『八幡の神体を稲に包み』とある。
これは原本を模写した家々で
・(移住の際に)稲穂でご神体を包み……緩衝材
・ご神体を稲に包み奉り……ご神体の一部 など
多少の齟齬が生じている。

ただここで言えることは、ご神体が傷つかないように稲穂・藁を使用したということだ(その使用法は諸説あり)。
それ故、家紋をこれまでの家紋から稲穂を用いた家紋に改める、ということであろう。

よく見ると小さな円状のナニカを稲穂が守っているように見えますね

欲を言えば、改める前の家紋も知りたかったものだが、それは今は叶わぬこと。
しかし、このような活動をしていれば同じ志をもった鈴木姓の方と系譜を見せ合い、遠い先祖同士に繋がりを見つけられる日が来るかもしれない。

少なくとも現状では『紋所を稲穂に』とあることから、元々は稲穂を用いない家紋であったのではなかろうかとは推測できる。

酷暑もようやく終わりが見え始め、秋らしくなってきましたね。

まとめ

江戸時代に入るとさらに系譜が不明となる時期が出てくる。
今を生きる人にとっては書き物を残す作業は面倒なことでしかないのかもしれない。
しかし、子孫の立場ではどうだろう?何も書き残さなければ、自分という人となりは理解されぬままになるのではないだろうか。
そのためにも、要点だけでも『私はこのような生き方をした』と遺しておくと会ったこともない、会えはずもない遠い未来の子孫も自分のことを理解してくれるのではないだろうか。

また私はこれまで『熊野信仰とは』も全く知らないままでいた。知ろうともしなかった。
ようやく今は『熊野信仰の”基本的な考え方”のみ』理解ができた。
これについては、簡潔に要点をご教示くださり、「その考えを頭に入れ勉強してみてください」と道を示してくださった藤白神社様に改めてお礼申し上げたい。

今、私が仕事の隙間時間を利用し先祖について調べ・精査し・整理し・その一部を書いているこの活動。これまでに膨大な時間を割いている。金銭的な負担も然り。
本来は休息の時間を活用しているため、正直なところ心身ともに疲れてはいる。
しかし自分のルーツを辿る旅。先祖の思いに触れることもでき、私にとってはマイナスな要素を全て吹き飛ばすほどに有意義な時間だ。
今は周囲に全く理解されていないが、先祖に私の思いが届けばそれで良い。

原本を残してくれた先祖に心からの御礼を申し上げたい。

補足

系譜の原本が残っていないため、また、模写に次ぐ模写のため誤字・誤記があると思われる。その点、ご容赦を頂ければ幸甚だ。


【注意事項】
著作権の観点から、無断引用・転載はお控えください
引用・転載の際はお声がけください。

Thanks;
canva様   https://www.canva.com/                  ACフォト様 https://www.photo-ac.com/



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?