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戦国武将・鈴木重辰

手元にある資料に基づいた私感です。
『通説』を批判するものではありません。
改めて、整合性などを検証する機会をもてば良いと思っております。
(一部編集 9/24 00:30)



ゆっくりと家系図に沿った流れで書くと『八柱神社』創建にたどり着くまでに数か月かかるため、先に私感に基づく結論を記していきたいと思います。

現在の『通説』

『八柱神社』に置かれていたチラシ。誰が作成したのか不明。依って確認取れず。
【出典】八柱神社(不詳) 

失礼ながら、『源平合戦で戦に敗れ……』など、少しずつ先祖が遺した書き物と違うのです。詳細は今後記していきます。


創建した人物・年代は

先祖が遺し、また、随分と前の世代で枝分かれした遠い親戚の方々からご厚意で頂いた資料を見る限り、

創建は    1500年前半 (1540~50年が可能性大)
創建したのは 鈴木甚四郎重辰・妻は松平新右衛門の姉*1

資料が少ない戦『寺部城の戦い』。重辰が家康公初陣の敵将の可能性が高いです。(断言はできません。以降、順を追って記していきます)
松平新右衛門は『大賀弥四郎事件』に加担した、大賀(大岡)弥四郎殿の同輩・町奉行。新右衛門は信康公、築山殿の近くにいたやも知れません。
この二人が我々の先祖です。

碧海桜井(安城市)から根石郷欠村(現:岡崎市欠町)に重辰が屋敷を移したのが天文8(1539)年。

*1:俗名が分かりません。法名は分かっておりますが、現状、一族以外に公開する予定はありません。失礼いたします

無断引用・転載はお控えください。よろしくお願いいたします。

先日の「葵の御紋か、そうなのか……※」は、
重辰:仮)寺部城の戦いで家康公と戦い負ける
新右衛門姉:謀反とはいえ、実弟・新右衛門が大樹寺で自害
腹の中では決して面白い気分にはならないだろう、と。

※これは当方に不思議な現象が起きたため


熊野信仰の影響か

これも残念ながら否定せざるを得ません。
源義経公に仕えた先祖もいます。
頼重が鈴木家に養子に入り鈴木庄司清之となった時点が、私たち欠町・鈴木家と熊野信仰のルーツです。これがどう考えても平安時代末期。

また、全国・鈴木家のルーツである藤白神社さんHP・『由緒』でも

平安から鎌倉に掛けての時代、熊野信仰が高まる中で、この地に大鳥居を建て、熊野一の鳥居として熊野九十九王子中、最も格式の高い五躰王子の一つとなり、熊野聖域の入口、門として、祓戸王子を鳥居の近くに設けた。歴代上皇法皇の熊野御幸は延べ百回に及び、当社に必ず宿泊され、特別な催事が行われた。

藤白神社『由緒』より引用

とあり、平安時代末期から熊野信仰が盛んになったことが学術的にも信憑性が高い通説です。

全文はぜひ『藤白神社』さんのHPをご覧ください。また、鈴木姓のルーツ鈴木屋敷も見事なまでに復興されたのでご覧ください。
私も折をみてお伺いしたいと思っております。

では、なぜ『鎌倉時代後半が創建と推定』となるのか

大東亜戦争の際に書物・先祖の鎧等が全て焼失したそうです。それ以前に明治時代初期にも不審火により家屋が全焼した記録もあります。
戦争で書物が焼失し、古くに枝分かれしたお家の方経由で作り直したものが昭和40年代。昭和20年から20余年。記憶だけで伝聞がなされていたのではないかと推測することが妥当だと考えられます。

鎌倉時代の建造物、東大寺南大門@ACフォト

そのため、『推定)鎌倉後期創建』は私の親世代か祖父の世代が誤って管理なさっている神社さんに情報提供したと思われます。
事実、私が子供の頃より「うちは鎌倉時代から……」ということをよく聞かされていたものです。どこかで歴史がねじれてしまったのであれば、直すのも子孫の役割だと思っております。

私ども一族の誰かが歴史に向き合い、早くに「通説が違うのでは」と声を上げていればこのようなことになっていなかったと思います。
夏休みの自由研究で調べたお子さん、参拝くださった方々。歴史を修正せずにおり、失礼いたしました。
本当に申し訳なく思っております。

心よりお詫び申し上げます

まとめ

これが現存する資料から読み取れた「可能性が高い歴史(の可能性)」です。この後の作業は学者さん方が検証し、通説を変更するか否か、となさると思います。
次より、家系図順に歴史を綴っていこうと思います。

尚、家系図などですが、遠い親戚の方々のご厚情で頂戴した資料です。遠いとはいえ親族。「筆跡で身元が明らかになり親戚間のトラブルに発展することは避けたい」というご意向から、当方がタイプし直した資料を掲載しております。
その点、何卒、ご理解をいただけますようお願い申し上げます。

補足

妥当性のある資料であれば、岡崎市などを介して修正を。これが一番良い方法だと当方も思います。
しかし残念ながら、市などから一切の協力を得られない現状があります。「古書の寄贈・鑑定以外は受け付けない」という原則のようです。その他についてはここで言及いたしません。
そのため、現在は一石を投じるためにもひとりで活動しております。

お礼

この度、『由緒』の引用許可を快諾くださり、『熊野権現とは』とご教示くださった藤白神社様。
身元も明らかではない当方にまで貴重な時間を割き丁寧に接してくださり、全国の鈴木家のルーツという懐の広さを体感させていただきました。
また、復元した『鈴木屋敷』の詳細を記したウェブページのリンク貼りを許可くださった和歌山県海南市役所様。
重ね重ねにはなりますが、お礼申し上げます。ありがとうございます。
藤白神社様・鈴木屋敷、海南市のますますのご発展、祈念しております。
(時間を作ってどこかでお伺いします!)


【注意事項】
著作権の観点から、無断引用・転載はお控えください
引用・転載の際はお声がけください。

出典
八柱神社(※但し、不詳)

引用
藤白神社 様    https://fujishiro-jinja.net/
海南市役所 教育委員会 生涯学習課 様 (鈴木屋敷頁)https://www.city.kainan.lg.jp/kanko/midokoro/bunkazai/suzukiyashiki.html

Thanks;
canva様    https://www.canva.com/                 いらすとや様 https://www.irasutoya.com/                                                    ACフォト様 https://www.photo-ac.com/



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