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先祖を振り返る⑤ 重辰の子孫たち

はじめに

ここまで、戦国武将・鈴木甚四郎重辰の先祖と重辰自身の系譜を辿ってみた。今回は重辰の子孫がどう生きたのか、系譜を用いて辿ってみたい。

理由は次とその次の記事に書く予定の人物に迫りたいからだ。

重辰の子孫

豊臣政権下で行われた刀狩などをはじめとする『兵農分離』の強化からか、その時代に帰農する大名・武将も多かったと何かの書籍で読んだ覚えがある。
重辰の子孫も多くが刀を置く道を選んだ。

重辰の長男・重焉、次男・重尹、三男・重澄と諱(いみな)があるため、兄弟は武士として元服したと思われる。
長男・重焉は松平伊予守(結城秀康公に仕え、そのまま越前の国に住んだとされる)の家臣となり武士のままだが、次男・重尹(私たちの先祖になる)と三男・重澄は帰農している。

天正十五(1587)年、豊臣秀吉公が発布した『喧嘩停止令』
天正一六(1588)年、秀吉公が発布した『刀狩令』
天正一八(1590)年、家康公の関東移封

上記の時期あたりで重尹と重澄は帰農したのではないかと個人的には思う。
ちなみに、天正一八(1590)年で重尹は32歳(数え年)だ。母・松平新右衛門の姉(慶長三年一二月朔日卒ー1598年)の意向・存在も大きかったと思う。
家康公に従うのではなく、冷遇されたといわれる結城秀康公に重辰の長男・重焉が仕えたのも何らかの意図も感じるのだ。

重尹(清右衛門と改め)以降、代々、欠村の庄屋をしていたと記録されている。

重辰の子の時代から昭和初期までの系譜は以下のとおりだ。

昭和初期までとしたのは、戦後の民法改正により『家制度』が廃止されたため、以降、現行法上の一族の長はいないと法律に従ったためだ。

重辰の時代~昭和初期 欠村・鈴木家の系譜より

宝暦四(1754)年に卒した清右衛門は、各村の庄屋を取りまとめた『大庄屋』を務めている。『新編 岡崎市史 近世3』*1にもその名が見つかるが、清右衛門は矢作村(現 岡崎市矢作町)周辺の19村を行政管理していたとされる。

*1 また後日に確認し加筆します

村の代表をしつつ、重辰が建てた『八柱神社』の原型と『築山殿の首塚』を祀ってきたと思われる。
明確な記述が現存しないため、「ーーと思われる」という表記になることはご容赦いただきたい。

また宝永四(1754)年に卒した清右衛門の後は法名・卒年の記録はあるものの
①俗名が分からず
②関係性が分からず(誤って親子を夫婦と記すは不敬)
明記することができない。
そのため、天保一三(1842)年一月七日卒の清助 以前のおよそ100年間の系譜は不明だ。

不思議な系譜

理由あって明治一八(1885)年に卒した清太郎の次の代が(清太郎からみて)孫の森太郎になっている。

清太郎の長女・せいと吉次郎は?となるだろう。
理由は「子の森太郎を置いて、せいと吉次郎のみ吉次郎の家に戻った」=鈴木家の人間ではない=系譜から外されているとなる。
しかし、せいと吉次郎も好き勝手をして家を出たわけではない。
正しくせいと吉次郎の生き方を見なければ誤解するだろう。

これは『清太郎の時代』『せいと吉次郎』2回にわけてそれぞれの生き方を記したいと思う。

双方の生き方をみると、少し悲しい話です。
時代のせいかもしれませんが…… @ACフォト

江戸時代の三河の国

今年初頭から数か月、主にインターネット上で歴史について再勉強した。
その際に、目に留まったのは江戸時代の三河の地図だ*2。

まずは1600年代前半の三河の地形を記した『三河国正保国絵図』(岡崎美術博物館所蔵)だ。

*2 画像は当方所有のレプリカ

全体像 『三河国正保国絵図』岡崎市美術館所蔵 
※これはレプリカです

ここでの『岡崎』は岡崎藩が管理した領地と思われる。

岡崎藩近辺 『三河国正保国絵図』岡崎市美術館所蔵 
※これはレプリカです

もう少しクローズアップする。

岡崎藩近辺 『三河国正保国絵図』岡崎市美術館所蔵
※これはレプリカです

カケ 三百……と読み取れる。
『新編岡崎市史 近世3』でも慶長九(1604)年~文禄一四(1701)年。検地など記録に残る限り、300石~400石弱の石高とわかる。

収穫高の単位を表す『石』は成人が1年で消費する(ここでは)米の総量程度とされるが、ここでの『石(石高)』はその土地の生産能力や領地の広さを示すと考えた方が良いのだろう。

カケの隣の『大平(村)』はこの後(寛延年間:1700年代半ば)、大岡越前の名で有名な大岡越前守忠相公西大平藩として初代藩主を務めることとなる。

もうひとつの地図は元禄年間に江戸幕府の命が下り、元禄一四年二月に幕府に献上された『三河国元禄国絵図』・愛知県図書館所蔵(愛知県指定文化財)だ。

全体像 『三河国元禄国絵図』愛知県図書館所蔵(愛知県指定文化財)
※これはレプリカです

岡崎をみてみよう。

全体像 『三河国元禄国絵図』愛知県図書館所蔵(愛知県指定文化財)
※これはレプリカです

注意事項

ひとつご注意いただきたい。

『三河国正保国絵図』(岡崎美術博物館所蔵)
『三河国元禄国絵図』(愛知県図書館所蔵・愛知県指定文化財)はそれぞれ岡崎市と愛知県が管理している。
全体像を閲覧したい場合は、各所蔵先に問合せや見に行っていただきたい。

ここで私が使用した画像は、私が古書店で購入した『愛知県史 資料編18 西三河 近世4』の付録。レプリカだ。
貴重な歴史資料のため、また、自身が所有する付録・レプリカの画像のため、複製や転載は特にお控えいただきたい。
数は少ないが、古書店で取り扱っている場合もあるため、気になる方は探してみていただくよう、お願い申し上げる。

まとめ

江戸時代の庄屋は「現代の村長にさらに権力をもたせた役割」とよく聞く。
もつ権力を上手く活かし村の人のために役割を担ったことを切に願うばかりだ。

そう書くのも、下記のような事例がある。実話だ。
知人を介し、90歳ぐらいの御老体を知っている。しかも、御老体は昔は欠町、もしくはその近くに住んでいたという(今は別の地域にお住まい)。
「欠町・旧)欠村の鈴木家は三党あって……(おそらく、力をもつ家が三つあったーーということだと思われる)」
そう話すことがよくあると知人から聞いた。
私はその先がどうしても知りたくなった。後の世に遺したいからだ。

私の出自と質問の意図も明らかにした上で知人を介し「詳しく聞ききたい」とお願いした。
しかし、「私は歴史を語る身分ではないから、申し訳ない」。そう断られてしまった。ご本人が嫌がっている。私もそれ以上に聞き出さなかった。
それ以上に『身分』と言わせてしまったことを心底申し訳なく思った。
私を含め、今を生きる一族の全員。生まれた場所に由緒があるだけで、何ら力はもっていない。加えて、その力を自分の権力だとは思ってはいけないと思う。
「自慢したいことは自力で手に入れろ。但し、修めた後は”君子懐徳”。この精神を忘れるな」。これが私の信条だ。

昭和二二年に民法が改正され、『家(家督・家長)制度』は廃止された。昭和二二年以降、法の下、みな平等になっている。
しきたり・慣習が地方にいくほど残ってしまうのは仕方ない。ヒトも本来は変化を嫌う生き物だ。
しかし、新しい考え方・関係性の構築・時代の移り変わり・法。それらを柔軟にしきたり・慣習に織り込んでいただきたい。
(これはまた改めて触れたいと思う)

そうでなければ昔を知る人は誰も歴史を語ってくれないだろう。若い人は『しきたり・慣習』に辟易するだろう。
また、先祖が村に住む人に箝口令を敷くなどといった権力の間違った使い方をしていないことを切に願うばかりだ。

私自身も先祖のためとは再三いってはいるが、一族の繁栄と他者との平等な関係性の構築は未だに願ってやまない。

追記

いつの時代に作成されたものかは明言できないし、また、分かっていることもネット上では明言できないが、先祖が遺した訓がある。
それをここに載せることで系譜を辿ることは一旦終わりにしようと思う。

先祖が遺した訓。
私はこのような生き方をしたいと思う

【注意事項】
著作権の観点から、無断引用・転載はお控えください
引用・転載の際はお声がけください。

画像
『三河国正保国絵図』岡崎市美術館所蔵
『三河国元禄国絵図』愛知県図書館所蔵(愛知県指定文化財)
※但し、『愛知県史 資料編18 西三河 近世4』の付録・当方所有の画像を使用

参照
新編 岡崎市史 中世2
新編 岡崎市史 近世3

Thanks;
canva様   https://www.canva.com/                 
ACフォト様 https://www.photo-ac.com/





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