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【東海道】岡崎二十七曲りを歩く③~寄り道~ 総持尼寺・築山稲荷


はじめに

最新情報を入手するためだけに私は『X(旧Twitter)』を利用している。
それでも気になるタグは稀に追う。今年の大河ドラマ『どうする家康』もそのひとつだ。
酷評が多く、今は見てはいないが※1。

※1 個人的な考え/意見に過ぎないが、私は元々テレビを殆ど観ない。どの媒体も情報を収集する手段のひとつとしか見做していない。集めた情報の中から真偽を判断するのは各人がすること。今回の『どうする家康』は「年号と実際に起きた結果さえ変えなければ、こういったパラレルワールド的な世界観があっても良いのでは」と思っている

さておき、瀬名姫がいらっしゃった築山がどこなのかーー。そういう考察が書きこまれていた時期があった。
そのため、できれば今年中に現在の”築山”のおおよその場所まで辿り着けるようにしたいと思う。
(本多忠真公の欠古城の跡地は、現在の東公園に在る本多邸の場所ではないと思われる。ずいぶん昔の航空写真でもどうみても原生林生い茂る場所のため違うと思われ)

今回は、瀬名姫が築山殿・築山御前と呼ばれる基になった場所を訪れる。
前回の記事の場所から500m程度北上すると、その尼寺(今は尼寺ではない)に辿り着く。

前回の記事は以下を参照いただきたい。

前回の「旅の印」
ここを直進せずに(名古屋方面に向かって)右に曲がり北上
「甲山中学校東」の信号まで道なりに進む、その後左折

地図で表すと以下のとおりだ。

道なりに北上
引用元:Googleマップ

総持尼寺と築山稲荷

「甲山中学校東」の交差点を左折し20mほど進むと右手に階段が在る。
それが「総持尼寺・築山稲荷」の正面鳥居の眼下だ。

この階段を上る。
裏に傾斜のある道もある。

階段を上ると築山稲荷の鳥居が在る。

小高い山の頂上に今は在る

振り返ると遠くにある山の稜線が綺麗に見える。

山の向こう側が蒲郡市周辺か

上記のように見晴らしの良い場所に在る。

総持尼寺

まずは「曹洞宗 深恩院(総持尼寺)」を拝見させていただく。

立派な屋根の本堂。

厳かな雰囲気

日本建築の美しさに思わず息をのむ。

少し斜めの角度から

屋根瓦の家紋は神社仏閣や家の由緒を容易に知る印だと思う。

「丸に二つ引き」の家紋
足利氏との由緒が有るのだろうか

瓦は型でとっていると思うが、この精巧さは大事にした方が良いと思う。
型(鋳型・砂型双方)製作の技術も日本が世界に誇ることができる最高峰の技術ではないだろうか。

あまりの精巧さに相応しい言葉が見つからない

かわいい獅子もいる。

遺したい日本の技術

本堂前には仏塔の石碑(正しい言い方は何か分かりかねる)と手水鉢か。

手水鉢にも「丸に二つ引き」

ご由緒が書かれた掲示板。

これほどの歴史ある寺院・神社に市が力を入れない謎の街
東海オンエアさんが市に協力してくれるおかげで、少しは広報/発信がマシになりましたかね……
それ以前は(以下自粛

お寺のご由緒は、引用でご紹介する。
本文はできれば直接足をお運びいただけると幸いだ。

当山総持尼寺は瑞生山と号し深恩院ともいう。本尊は大日如来である。
今を去る八百年の昔、順徳天皇の御世、健保二年(一二一四)宮中に毎夜妖怪が現れて人を悩ませた。宿衛の士 本間三郎重光が招をうけてこれを射たところ、一匹の白狐であった。
(中略)
「重光の所領である三河の菅生郷に、日本六十余州の名山の土を集めて山を築きその頂きに稲荷神社造立し傍らに一寺を建て~(中略)
即ちこれ築山稲荷総持尼寺の創建であり開基は利慶徳善大比丘尼である。

築山稲荷 総持尼寺 由緒沿革より

ご由緒(上記は寺伝の模様)によると稲荷神社が主のようだ。神仏が明確に区分されていなかった時代だ。むしろ明確に区分されたのは近代日本。歴史がある神社仏閣は神仏の合祀が多いのではないだろうか。

当寺は創建以来ずっといまの籠田町地内 岡崎市街の中心地にあったが大正の末年ころは伽羅も朽廃甚だしく、よって復興再建のため岡崎市当局の協力を得て国有の境内地を岡崎郵便局の用地として提供、寺は中町小猿塚の地に移転新築することとし迂回曲折はあったものの昭和五年現在地に移転改築を完了した。

築山稲荷 総持尼寺 由緒沿革より

できるだけ今年中に籠田町周辺まで東海道の旅の記事を進める予定だが、築山殿は岡崎城東総門前に在った当該寺社に暫く住んでいらっしゃった

(略 ※築山殿が今川氏の人質になり、解放されたのちーーネコチャーンまとめ)
嫡男の信康は岡崎城に入ったが、正室の瀬名姫は岡崎城に入ることを許されず、岡崎城、東の総門近くにあった尼寺、総持尼寺に幽閉のような形で別居させられた。
(中略)
総持尼寺には築山が有り、築山稲荷が祀られている。築山稲荷があるお寺に居るお姫様……築山の姫様……築山様……築山殿と呼ばれるようになった。(約17年程、当寺に居たことになる。)

「解説」 曹洞宗 深恩院 瑞生山 総持尼寺より

この総持尼寺・築山稲荷が瀬名姫が築山殿と呼ばれる所以だ。
築山は「土が堆積している小高い場所」。前々述の引用で「~名山の土を集め(以下略」とある。
それが稲荷の名前の由来ではないか。仮定にしか過ぎないが。

築山稲荷

本来はこちらが主かもしれないが、現在は寺社が管理なさっているため寺社の紹介の後としている。その点はご容赦願いたい。

本殿と鳥居。共に朱色で青い空に映える稲荷だ。

築山稲荷の石碑も在る

階段下に白狐様がいらっしゃる。

お狐様

その他の石碑

境内に翁(どなたかは不明)の碑や石碑があったため、その写真も掲載する。

ある翁(寺社に関係のある方か)のお墓?と思われる

句を記した石碑3つ。

すぐ隣は住宅が並ぶため、静かに参拝いただきたい
何が書かれているのか読み取れれば良いのだが……

しっかりと参拝し、寺社を後にする。
帰りは総持尼寺・築山稲荷の北側の入り口からご無礼する。

車の乗り入れも可能な模様(檀家さん用?)

その帰り道に築山殿の首塚へ

総持尼寺・築山稲荷から八柱神社までは1㎞強の距離のため、家路に向かう足を八柱神社に向けた。

このようにネットに記事を書かさせていただいている以上、
散策の折には出向いている

どなたかが参拝者のご厚意のお花を活けるバケツを用意してくれた模様。
有難い。

以前はこのように日中でも日の陽も当たらなかった覚えが……
それだけに私も環境整備の力になりたい

まとめ

寺社に残っている書き物であれば間違いないであろう。
それならば、築山殿は今川氏に”三河からの人質”としてとられ、その後に岡崎に戻ってからも17年程、岡崎城に入れてもらえず幽閉に似た形で別居させられていた、と。
家康公が浜松に居城を移した際も上記のような状態ではついていくはずあるまい。信康公が岡崎城主となり入城を許可されたのではあるまいか。推測に過ぎないが。

三河のために人質となり、解放されても三河の一員と思ってもらえず幽閉に似たかたちで別居。ヒステリックな人柄とまで後世に遺される有様だ。
今の世でも築山殿に関することは二の次の岡崎。他所から来た姫様という雰囲気が消えてはいない気がする。
これでは築山殿があまりにも不憫だ。

そろそろ三河/岡崎の住民のひとりだったと捉えても良いのではないだろうか。


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参照

家紋のいろは
https://irohakamon.com/kamon/hikiryou/marunifutatsuhiki.html

『由緒沿革』『解説』 築山稲荷 総持尼寺 




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