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風呂ニケーション

風呂道楽の祖父の英才教育もあってか、私は大の風呂好きである。
いわゆる健康ランド的な施設も大好きだし、趣のある昔ながらの銭湯も大好きだ。
旅行に行けば、決まって銭湯や温泉、健康ランドを見つけて長風呂をする。
何も考えず、桶が響く音を聞きながらじんわりと体の芯から温まっていくのを感じる。そのひと時がなんとも言えない幸福をもたらす。

何も風呂好きは私だけの話ではない。
大学時代、同じゼミの同級生から「この後風呂行かね?」とゼミ終わりによく誘われた。「この後飲みに行かない?」と同じようなノリで。

会社勤めをしていると、十人に一人の割合で、温泉や銭湯など風呂関係が趣味だと答える(あくまで肌感覚だが、女性は温泉と答え男性は銭湯と答えるのが多い気がする)。

若者の間で風呂ブームがきていると肌で感じる。

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若者の〇〇離れという言葉が聞こえて久しいが、そういった言葉が言われる度に「若者に金がないからだ!」という言葉をよく目にする。
”若者の貧困”という言葉は確かに納得できる。しかしそれだけで論じるのはいくらなんでも限界がある。実態が見えて無さすぎて。

その最たる例が昨年の12月に投稿された日経のこの投稿だ。

案の定、これにも”若者の貧困”に結びつけてボロクソ言ってるアカウントが散見された。私のTwitterのFFにも、この”若者の貧困”に安直に結びつけて批判してる人がいた。(中には、「地域とのふれあいを求め〜」という部分に着目し、「赤の他人と交流なんかできるか」とコミュニケーション拒絶コミュ障を高らかと言い放つTHEインターネット人間な意見もあった。)

酒・タバコ・麻雀・車etc…昭和の方々なら誰しもハマったものがあったかもしれない。そんな時代で、「趣味は漫画・アニメです!」だなんて言ってしまえば、かつての宮崎勤元死刑囚のような”犯罪者予備軍”みたいなレッテルを貼られていただろう。
それが今はどうだろうか。漫画・アニメは立派な趣味の一つとして市民権を獲得して、胸を張って言える趣味となった。(同様にゲームやインターネットもそうだろう)
趣味としてしっかりと確立してきたのであれば、それにお金や時間を費やす人も多くなる。(それこそゲームが趣味の人は発売日に有休を取るなんてのもまあまあいたりする)

それと同じように、若者の趣味としてお風呂が確立され、お金や時間を費やす人も出てきた。それの一つとして風呂なし物件に住むという選択をした人が出てきた。それだけの話だったりするのだ。

それに酒やタバコのように個人の体質に左右されず、麻雀や競馬などのギャンブルに比べれば遥かに健全だし、車や時計などに比べれば遥かに安価である。まさに万人受けする趣味として、コミュニケーションのきっかけの一つとして、お風呂はかなり重要な立ち位置に来ている。

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風呂道楽の祖父は銭湯に行くと、必ずと言っていいほど知らない人と話す。
元々知らない人と話すことに何の抵抗も感じないタイプなのだが、銭湯だと相手のおじいさんもノリノリで会話してきたりと、”裸の付き合い”の偉大さを感じる。
幼少期は「おじいちゃん、知らない人とお喋りできるんだ…」と自分にはできないなと思っていたが、大人になってくると(帰省すると子供の時と同じように銭湯に連れてってくれる)祖父が知らない人と会話していると、タイミングを見計らって「どうも孫です〜」だなんて割り込んで話したりもする。
※祖父が40代の時に私が生まれたので、大体の人は「え!こんな大きい孫いるの!」みたいな反応が返ってきて、そこから他愛もない会話をしたりする。

一人で旅行して銭湯に入っていると、「どこからきたん?」みたいな感じで知らないおじさんに話しかけられたりする。
サウナに入っていた時に映っていたテレビの野球中継でホームランを打った瞬間、隣にいるおじさんと一緒にガッツポーズしたりと、普通に生きていたら出会わないしコミュニケーションも取らない人と接することができる。それが風呂ニケーションの力だ。

友達と入れば、楽しく会話して大きな声で笑ったりすることもできる。
リアルなコミュニケーションをより濃密にすることができる。

コミュニケーションを取らない(取れない)人の声がでかいプラットフォームでお馴染みのTwitterランドに”常駐”してる人たちには永遠に気づくことはできないだろう。
もう”コロナ禍”は終わりを迎えている。しかし、Twitterランドに”常駐”してる人たちは、”トンデモ”を言ってる人を吊るし喘げて、自分の正当性を主張して溜飲を下げ、結局のところインターネットの中でしか通用しない”ドッキリ”にハマっていることにだけにすぎない。
テレビ番組だったら、「ドッキリ大成功〜!」とタネ明かししてくれるが、現実社会ではそうはいかない。
インターネットの中でしか通用しない”ドッキリ”にハマっていたら、「関わらないでおこう」とジワリジワリと人が離れていく。

(そういう意味では、”若者の貧困”という物語はたしかにキャッチーでセンセーションであるが、しかしその説得力があまりに強いせいで、しばしば”ドッキリ”のような性質があるのかも知れない。)

「気づいた時には遅かった」だなんてことにならないように、外に出て普通に生きていたら出会わないしコミュニケーションも取らない人と接することが大事なのかも知れない。

そのための一つとして風呂に入る。
風呂のコミュニケーション、略して風呂ニケーションで”景色”を見ることが大事なのだ。

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