めんどくさがり屋のひとりごと③「独り相撲」

張り合いの無いことをすることは、果たして自分の為になるのだろうか。

私はこうして、誰も観ていないかもしれない文章を書き連ねている。

それは、「いつか誰かが観てくれるだろう」という希望的観測がそこに存在しているからである。そうで無ければ、こんな眠い眼をこすりながらパソコンに向かって駄弁をグダグダと述べていることなんて真っ平御免だ。

しかしながら、誰かが観ているという感触の無いまま、時間だけが過ぎているのが現実である。言うなれば、「無反応な人々が閲覧者に多い可能性」がある。本当に誰も観ていないという可能性だってあるのは判っているし、むしろその可能性の方が一番現実味あることだってことも判っている。それでも、「誰か観ている」というその可能性に賭けていたいのである。

創作を志す人がやる気を出すための原動力、それは他の人の反応である。「面白かった」「あそこがつまんなかった」「もっと判りやすい表現で読みたい」――色々あるだろうが、何かしら反応を見ず知らずの誰かから貰うことは、次の創作活動においての参考になる。だから、「誰かに観てもらう」ということは結構侮れないのである。

もちろん、観てくれている人もいらっしゃるが、それでも一人か二人程度である。モチベーションを上げようにも、どうしても上がらない。

「こんなことをやっていても誰も何も言ってくれないなんて、反応してくれないなんて――自分がバカみたい」こんな気持ちがよぎることはしょっちゅうだ。

私は心の中で報われたいと思っている。けれど、報われない状況が続いていると、止めたくなる。心が疲弊してゆくのだ。

今この投稿を書いている時でさえ、「きっと誰も観ていないんだろうなぁ」と思っている。だから、こんな負のオーラに満ちた誰の得にもならない文章を書けているのだが。

私の投稿がコンスタントでは無いことも、この状況を作っている理由になっていることは否めない。私は天才では無いので、そうポンポンと物語が紡げない。才能が無いことなんて、とうの昔に気付いてる。

「じゃあ、辞めれば?」と思うかもしれない。ただそれに「じゃあ、辞めようかな……」と簡単に応えられるほど、私の気持ちは文章を書くことに絶望は抱いていないのだ。

文章を書くことは苦しいけども気持ちが良い。こうやって愚痴を垂れ流している間も、自分の中で蓄積していた澱が消えてゆく感覚があるからだ。

仕事はストレスの元だけれども、仕事がストレス解消になればどれだけ精神衛生上楽だろう。嫌な気分を別人格に代弁させることが出来るのだから。それを叶えるために、私はこうして孤立無援の中で誰も観ていない文章を書き続けるのである。

私の文章がつまらないならつまらないで良い。嘲笑うがいい。

私にとっては、こんなに面白いことは無いのだから。

好き勝手に書いてゆくことにしようと、密かに決意を新たにするのだった。

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