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内山節「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」

1965年を境に日本人の暮らしぶりが激変したため、狐に欺されるべき下地を失くしたというのが、著者が周囲の村人に訊いた上での帰結。「平成狸合戦ぽんぽこ」を連想させる原因説だ。

この時代的節目を表すに、便利な言葉があることを後に知った。仏の哲学者ジャン=フランソワ・リオタールの言う「大きな物語の凋落」である。それが日本でもおきて日本人(とりわけ、地方農村部に住まう人々)をキツネから自由にした、と換言できると思う。そして、内山は伝統的農村の暮らしの中に、喪失した日本の「大きくて偉大だった物語」への礼賛を込めて「記憶の歴史」を留めようと書いているのだ。キツネはただのキャッチーなワードに過ぎない。

この本に出てくる表現をなるべく使わずに、著者の主張を解釈してみたい。

資本主義の到来と理知的であることを良しとする西洋文化、ひいては科学崇拝の立脚点が、正否によらず古来から存在しえた「非合理な知の文化遺産」を日本人から奪ったのだ、と内山は考える。

「合理的な知」が近代西洋の考えで、日本にはそれに属さない「非合理で曖昧な知」があったとする。それは、村社会をとりまく(周囲の環境である)自然と一体となった精神性のことで、人間はその一部であるという悟り(気付き)から生まれていた。それが失われたことにより、キツネに化かされる才能が逸失してしまったのである。

他にも、高度成長期ゆえに死生観(里の行事の崩壊)や自然観(植林によって人工的になる森)の変容が起きたとされる。

本書では、キツネが化かしていた「過去の(あるいは村社会の)日本人」という性質をきっかけにする。

内山が前半部で採用する視点は、自然回帰ないしは自然中心主義のものだ。動物と同じように純粋に生活することが、(自然に対して協調できる)人間のあるべき姿としている。合理的な知によって欲や不安をかき立てられた人間はその純粋性を穢していき、自然との一体化にそぐわなくなっていく。

内山は日本人が古来から持っていた自然と密着した精神世界を、仏教思想で説明することに長けており、たとえば、修験道の修行とは穢れの浄化なのである。そして、究極的には自己否定に過ぎないと研究者が捉える本覚思想「山川草木悉皆成仏」に真理を見いだしたのが日本の民衆で、「草や木を含むすべてのものが仏性をもち、成仏を約束される」ことに納得したのだとする。

後半では、さらに「記憶の歴史」を加え、知と合理から、且つ、正史として語る者から「客観される歴史」というものがあり得るのかを問いかける。そして、発達史という捉え方では“みえない歴史”を生むと内山は言う。

内山によると、歴史には、他者と環境との関係から成立する性質と、その時々の認識によってのみ生じていく蓄積があり、それらが記述されえない「記憶の歴史」に含まれるのである。

キツネに化かされたことを伝えることができない歴史には、つかむことのできない何かが欠けたままである。豊かになったはずの現代に蔓延する喪失感の正体とは、そういうことであろう。過去の体験をプレイバック(=感じ取ることの)できなくなった歴史とは、そのリンク(結び付き)が衰弱してしまったからだ。“みえない歴史”とはそういうことなのである。

そのなかに、仮託=寓意や比喩でなければ伝承されないものがあり、それらを里の行事や作法が担っていた。それらの理解が失われれば、自ずと人々がキツネにだまされることはなくなってしまうのだ。

ではキツネに欺されていた日本人とは、どういう人間であったのか、内山節の主張をもとにして、(逆向きに)組み立ててみたい。

まず、大前提として共同体に属している。その共同体には村人や土地、山林、河川、動植物が含まれている。そして、世界の物事を共通の尺度で捉えている。その尺度とは、村の行事や作法(神事、職人の技、通過儀礼、など)を通じて培われており、代々継承されてきたものである。

彼らの精神世界を司る宗教として、仏教と神道があげられるが、両者はとくに区別なく冠婚葬祭に採り入れられている。

彼らは周囲の環境を大事にするが、それは動物愛護であるとか自然環境を保全するということではない。大切だが破壊もするといった、矛盾する立場が併存する共生であり、必要な時には狩猟を行い、害獣を駆除したり、田畑への灌漑のために周囲の自然を作り替えたりする。にもかかわらず、狩りや木の伐採、焼き畑が適度な循環を育み、自然は大規模な手入れを必要とすることなく、適切に保全されていく。

生活は百姓のそれである。百姓の暮らしをすることで、本覚思想「山川草木悉皆成仏」が体現され、人々は解体されるべき自己(生きることによって穢れていく我)を悟る。この中では、西洋的なる「合理的な知」は自然と共に暮らすことは不可能である。

こうして、キツネに化かされる事件と同様に、異界との接触や動物の霊力といった認識が生まれ、たとえば、馬頭観音がある理由として語られる素地になっていく。

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