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ちいかわ、でかつよ、救われるオッサン。

平日休みの日は、ニート生活を思い出す。

通勤で激混みする道路を横目に悠々と散歩に出かける。
偽りの自由に得体の知れない万能感を覚えながら漫画喫茶でドリンクバーを注ぐ。
時折心の中で「こんなことしてていいのか」という声を遠く聞く。が、実質自分では何も行動を起こさない。
そんな日々を。

恥ずかしながら、私は二度ほど人生の夏休みを過ごしたことがある。

一度目は大学卒業後の1年間。
二度目は去年10月退職をしてから今年の4月まで。
どちらも意図的にというよりは、私の人生に対する不真面目な態度が招いた結果だ。
三十歳を間近に控えた今でも、私の精神は社会人というより子供に近い気がする。

だからだろう。本日も私は漫画喫茶で、鬼頭莫宏の『ぼくらの』を読み終わり感極まっていた。

少年少女が自らの命と引き換えに動くロボットを操り、世界を救う戦いに参加していく。
しかし一人ひとりが己の最期に綺麗な花を咲かせていく(例外もいるが)。
自分もこのような生き方をしてみたいとすら思った。

でも現実は世界滅亡の危機には瀕してない。
ジアースもパイロット勧誘してくるコエムシも存在しない。
一生スポットライトを浴びることなく過ごすしかない。
未来のある少年少女が世界を救う物語には、生来が見え始めた大人が活躍する余地はない。
私はその事実から目をそらして、このようにマンガを読んでるささやかな時間だけ、誇大妄想に浸る。
叶わない欲望を持ってしまうことはなんと残酷か。
もし人間が身の丈にあった欲望しか持てないならば、もっと幸せだったろう。

私は『ぼくらの』の最終巻を返却棚に戻した。
パック料金の残り時間が余っていた私は、新刊・メディア化コーナーをさまよった。
そこで『ちいかわ』が目にとまった。

『ちいかわ』のことは知っていたが、時折ツイッターで流れてくるものを見ていたくらい。
ゆるい世界にかわいいキャラクターと見せかけ、「キメラ」や「討伐」など不穏な空気を漂わせるマンガ。そのため作品への考察も盛り上がっている作品。その程度の理解だった。
時間潰しで読むにはちょうどいい、と私は一巻を手に取った。

だが、序盤から大きな衝撃を受けた。

最初の数ページで「こういう風になってくらしたい」と題した絵が続く。
一番最初のものは、主人公の「ちいかわ」の姿態のイラストとともに小唄のような文が書かれている。

こういう風になってくらしたい
怒られたりしたら/びえーっとあばれて
スン…スン…/とねむりたい
つかれたら/びぇーっとあばれて
て~っ/と逃げたいし
うれしいことがあったら/キャッキャッとおどりたい

https://news.kodansha.co.jp/9007

このような調子で数枚の「こういう風になってくらしたい」が複数ページ描かれる。
その内容は、おおむね次の通り。
ちいかわは、赤ちゃんのように自分の欲求に従って動き、反応する。
泣いたり喜んだり、甘いものを食べたり、疲れてへたりこんだり……。
すると周囲の環境はそれを肯定してくれ、助けてくれる。あまつさえ、かわいい・かっこいいと褒めてくれる。
ちいかわは満足感に包まれて眠りにつく……。
このような甘くて優しい世界がコマ割りのない漫画の形で描かれている。

だが、一番最後の「こういう風になってくらしたい」で世界が一変する。

キャラクターは「ちいかわ」ではなく、恐ろしい面をした化け物。
その横には「なんかでかくて強いやつ」と書かれている。通称「でかつよ」と呼ばれるキャラクターだ。
文もそれまでのものとは毛色が異なる。

こういう風になってくらしたい
なにか嫌なことがあったら/バーンとねじふせて
音速で駆け回り/生きるため/食物をむさぼり
闘志を/燃やすのだ

https://news.kodansha.co.jp/9007

でかつよは、文字通り他の生物よりも強い存在。
自分の欲求を満たすために他の存在から奪うことができる。
もちろん捕食する際は相手の命さえ奪う。
ちいかわと違い攻撃的なキャラクターだ。

「こういう風になってくらしたい」絵巻にいきなりでかつよが登場したのはなぜか。
私は戸惑いながらその意味を考えた。
考えるまでもなく、それは「小さくてかわいく生活したいのと同じくらい、でかくて強く生きたい」というメッセージだ。
私はこれにとても共感できる。
赤ちゃんのように一挙手一投足可愛がられて、世界から祝福されたい。
誰しも幼少期は「かわいい」と言われほめそやされてきたはず。無力ゆえに無条件で他人から助けられる存在だった日々。あるがままの自分を肯定してもらえる世界。
しかし現実は「かわいい」ままではいられない。
世界には暴力や偽騙をもって他人から何かを奪おうとする存在がいる。
自分自身の幸せのために誰かの幸せを犠牲にせざるを得ない場面がある。
強くなければ奪われる側になってしまう。

「ちいかわで暮らしたい」と思うと同時に「でかつよで暮らしたい」と思う気持ち。
これは多くの人が共感できるのではないか。
だがこれは二者択一の決断を強いられる。なぜなら、「ちいかわ」であることと「でかつよ」であることは両立しないからだ。
誰かの庇護下に入る人間は無力だからこそ守られ愛でられている。
その存在がひとたび他者を攻撃し奪う力があると分かったらどうなるか。もはや「小さくてかわいいやつ」ではない。
「でかくて強いやつ」のカテゴリーに入り、更なる強さを求めるしかないだろう。

また、この理解から『ちいかわ』のヘンテコな世界への解釈ができる。
『ちいかわ』ワールドとは、相反する理想の姿の中で葛藤する人間を戯画化したものだ。
「ちいかわ」たちは無知無力で愛されるべき存在。
しかし、ひとたび誰かを力でねじ伏せてしまったり何かを奪ったりすれば、もはや「でかつよ」側になるしかない。その過渡期が「キメラ」だ。
作中に登場するモモンガは元々でかつよだったが、何らかの方法でちいかわの肉体を奪った存在。
だが中身は変わらないので、あくまで可愛がることを相手に命令する。力で言うことを聞かせることが「でかつよ」である彼にとって当然だから。
当然モモンガ以外にも「ちいかわ」であることを偽装した「擬態型」もいる。

そして「ちいかわ」たちの生活や環境を維持するのが「鎧」たちだ。
作中では仕事をあっせんしたり小物を作成して販売したりしている。
「鎧」たちは一体何者なのか。
思うに現実における「カワイイ文化」の再生産を支えるメディアやアパレルブランドの従事者ではないか。より広義に考えれば、人に「可愛くあれ」と促す両親や社会も当てはまるかもしれない。
自らは「ちいかわ」ではないが、「ちいかわ」たちの生活を支えて守っている。
だが「でかつよ」や「キメラ」たちを排除する討伐を、自らは行わない。「ちいかわ」たち自身にやらせている。
愛でられる存在であり続けた結果の責任は、本人たちに取らせるということか。

可愛くあることの難しさといえば、私の前職のある友人を思い出す。
私の前職は陸上自衛隊という組織だ。
自衛隊員の見た目はほとんど「でかつよ」や「キメラ」の世界。
その中で友人は結構「ちいかわ」感を前面に出していた。悪く言えば、マジョリティである男の隊員に対して媚びを売っていた。
だがそんな彼女も昔はバリバリの体育会系で、女を捨てた系の女性自衛官だった。「でかつよ」だったのだ。
なぜ変わってしまったのかと問うたら、彼女はこう答えた。
「だってこっちのキャラの方が得するから。男性からは敵視されることはないし。体力とかでどうやっても男性に勝てない部分があるからね」
それでも私は彼女が時折セクハラまがいの接し方をされているのを知っていた。
幸い友人はいなすのが上手だったから何もなかったが、毎回冷や冷やするものであった。
愛らしい生娘のフリをすれば狼が寄ってくる危険がつきまとう。

また、カワイイと言われるのも賞味期限がある。年齢が高くなればいつか可愛い存在ではなくなる。
そんなとき、フリではなく素で「ちいかわ」だった人はどうなるのだろう。きっと一番下層の弱い「キメラ」にしかなれない。


「ちいかわ」たちには可愛くない存在として討伐の対象とされ、「でかつよ」たちにはヒエラルキーの底辺として虐げられる。
弱者男性よりも弱者女性の方が悲惨と言われるのは、こういうことかもしれない。

『ちいかわ』一巻を読み終えた私は、すっかり冷えたホットコーヒーに口をつけた。
すっかり『ぼくらの』を読んで得た高揚感はなくなっていた。
その代わりアラサーが少年少女セカイ系を読むことで受けたダメージもなくなっていた。
『ちいかわ』は、「小さくてかわいくありたい」と願いつつ「でかくて強くありたい」とも願ってしまう人間を肯定する。
それがまるで「かっこよく活躍したい」と考えながらも「このままダラダラ過ごしたい」と思っている私を認めてくれたような気がした。
いまさら『ちいかわ』を読んだニワカであるが、ファンになった。
ありがとう、ナガノ先生。

時間が来たので私は『ちいかわ』一巻を返却し漫画喫茶を出た。
そんな金曜日だった。

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