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「チーム北海道」は本当にコンサドーレのらしさと未来なのか?【ぼくのコンサ史・序章】

 シリーズ『ぼくのコンサ史』とは、北海道コンサドーレ札幌の歴史を自分なりの史観で書いてまとめる試みだ。序章ではコンサの歴史をたどることで僕がシリーズを通して考えたい「問い」について書いていく。


1.「日本のビルバオ」の夢

 かつて、あるサポーターがコンサドーレを「日本のビルバオ」と称したことがあった。宇都宮徹壱さんが2013年に札幌を取材したときの話だ。

「今のコンサは、トップに道産子の選手が多いのが嬉しいですよね。半分以上が北海道出身で、アカデミー出身。ですから『日本のビルバオ』と呼んでもいいんじゃないですか? これなら(北海道日本ハム)ファイターズにも威張れますよ。『北海道を名乗るなら、道産子でメンバーを集めてみろ』ってね(笑)」

宇都宮徹壱『J2&J3 フットボール漫遊記』p63

 「ビルバオ」とはスペインのアスレティック・クルブのことだ。スペイン・バスク地方のビルバオを本拠とするこのクラブは、選手を「バスク生まれ・育ち」に限ったチーム作りをずっと続けている。特殊な縛りのある編成でありながらラ・リーガ創設から一度も降格したことがない3クラブの一角だ。残り2クラブがレアル・マドリードとバルセロナであることからそのすごさが理解できるだろう。

 2013年当時のコンサは、2012年のある意味「伝説的な降格」の後、社長に野々村芳和さん(現Jリーグチェアマン)をすえ予算規模を縮小して再スタートを切った。そのときチームの頭数として戦力になったのがアカデミー出身を含む道産子(北海道出身)の選手だ。

 2024年現在、2013年と比べて状況は大きく変わった。どん底の状態からJ2を戦っていたクラブが今やJ1に定着している。あの頃のように「日本のビルバオ」をうそぶくコンササポはおそらくいないだろう。

 とはいえ北海道出身、アカデミー出身の選手は今もコンサで活躍している。たとえば宮澤裕樹選手(伊達市出身)は2016~2023年までキャプテンとしてピッチに君臨し、今季2024年からは荒野拓馬選手(アカデミー出身)にその座を引き継いだ。

 近年の大きな特徴としてはスタッフ(アカデミー含む)に道産子をどんどん入れていることだろう。選手ばかりかスタッフにも地元出身で北海道をよく知る人、あるいはコンサドーレを知るOBをどんどん内部に増やし「純度」を高めようとする意識を感じる。

 「日本のビルバオ」という例えがふさわしかったか、そもそもアスレティックを理想にすべきなのかという話は置いておく。しかし、アスレティックのようなクラブのあり方に憧れるJサポは少なくないのではないだろうか。

 クラブの哲学が染みついたアカデミー出身の選手たちで中軸を固めて日本で勝ち、世界で戦う。どのクラブの人間も理想として掲げているだろう。アスレティックのような縛りはないにしろ子供のころから育てた選手たちでチームを作りたいという思いはクラブもサポも持っているはずだ。

 特に地方クラブにとっては切実な願いだ。なぜなら「地元出身」という要素が地方クラブの持つ地理上の不利をカバーする大きな可能性を秘めているからである。

 地方クラブが選手を獲得する際にハードルとなる要素に「地方に住みたくない」や「今の住まいを離れたくない」といった点がある。前者は単純に東京などの大都会にいたいという話だ。後者は都内やその周辺クラブ間での移籍であれば、引っ越しが必要ないケースもあると以前小耳に挟んだことがある。家族連れの選手にとってみれば、子供の教育環境を変えなくてよく単身赴任の必要がない。

 もちろんそういう条件を一切考慮しない選手も多いはずだ。己の脚を最も求めてくれる場所ならどこでも行く。それがフットボーラーだ。しかしいくつかのクラブが選択肢にあったとき、先ほど書いた条件も考慮して比べざる得ないこともあるだろう。

 地元出身はその地方での生活に慣れている。一定以上の愛着はあるので、どこかのタイミングで地元のクラブと関わることを選ぶ可能性はある。アカデミー出身ならなおさらである。

 そもそもJリーグを作る際に、リーグの中心人物たちはかつてヨーロッパの地方によく見られた「地元の選手を地元の老若男女が応援して支える」というクラブ像を日本の地方クラブの理想像に置いていた節がある。つまり地元出身、アカデミー出身でチームを固めていくのが理想であり当たり前という発想だ。

 その流れはもちろんコンサドーレも例外ではない。ずっと掲げているスローガンは「北海道とともに、世界へ」である。道産子、アカデミー出身がクラブの中心となり「チーム北海道」で日本全国と、世界と戦う。なんとすばらしい夢だろうか。これぞコンサドーレが目指すべき未来だ。

 ……本当にそうだろうか?

 これこそ僕が『ぼくのコンサ史』でコンサの歴史を追いながら考えたい問いである。

2.「アジール」としての北海道

 誤解しないでいただきたい。僕は決して道産子、アカデミー出身でクラブを構成することを否としているわけではない。地元やアカデミー出身選手が中心として活躍することはクラブのアイコンとしても機能するし、僕も同じ道産子として誇らしい。アカデミーの充実はサッカーを用いた地域貢献のあるべき姿だし、ホームグロウン制度対策にも有効である。

 僕が言いたいのは道産子やアカデミー出身、あるいはクラブOBでクラブの人間を固めていくことが本当に「コンサドーレらしい」のか、「北海道らしい」のかということだ。

 なに変なことをこいつは書いているのか。道産子やクラブOBで固められたクラブが一番コンサドーレらしい、北海道らしいに決まっている。普通はそう考えるだろう。常識だ。

 だが僕はコンサドーレの歴史、そして北海道の歴史をふまえるとその常識とは逆の発想が「コンサドーレらしさ」や「北海道らしさ」に結び付くのではないかと考えている。「らしさ」を証明するのは出自だけではない。それがコンサドーレや北海道が持つ別の側面である。

 北海道という土地を考えてみたい。野田サトル『ゴールデンカムイ』でかなり浸透しただろうが、北海道はアイヌが先住民族として昔から居住している。ある一面だけ切り取ると北海道は「アイヌの土地」ともいえる。しかし、別の面に光を当てるとこういう見方もある。北海道は「移民の土地」だ、と。

 まだ北海道は蝦夷地と呼ばれていた江戸時代、現在の松前町周辺には「松前藩」があった。北海道唯一の藩である。この藩の松前氏はもともと蠣崎(かきざき)氏と名乗っていた。蠣崎氏は若狭(今の福井県)からよく分からないが蝦夷地に流れつき、経緯は不明だが出羽(今の秋田県)の安東氏と結びつきながら蝦夷地の支配を確立させた。実態は蝦夷地全域ではなく今の道南地域が中心だったようだ。

 明治時代になって北海道には、開拓のため多くの移民が住むようになった。歴史の教科書にのっている屯田兵は最たる例である。北海道出身のみなさんは、この移民の末裔も少なくないはずだ。

 山室信一『キメラ』では、中国の満洲はかつての日本にとってアジールの役割があったのではないかと提起されている。日本人には政治思想や経済面など何かしらの事情を抱えた人たちが亡命する場所がなかった。そこで満洲が亡命先の代わり、つまりアジールとして機能したというのだ。

 僕の先祖は富山県の上新川郡(現在は富山市に編入)に住んでいた。江戸時代末期(幕末)当時、日本でも有数の貧しい農村地域だったらしい。そんな地域の普通の農家の次男三男以下がどんな扱いなのかは想像できるだろう。家主の労働力あるいは家の厄介者か。

 僕の先祖はそういう環境を抜けて一旗あげるべく現在の北海道雨竜町へと向かった。東本願寺の北海道開拓事業に乗っかったと推測される。北陸は本願寺の信者が多いし、東本願寺の開拓団が入植した地域のひとつが雨竜だからだ。その後僕の曾祖父にあたる人物は和寒町に移住し、町最大の農場・松岡農場の支配人の右腕として辣腕をふるった。まさに一旗あげたわけだ。もっとも小作人からは非常に恐れられたそうだが。

 東本願寺が北海道開拓に乗り出した背景には、政治的思惑があった。東本願寺は江戸幕府と関係が深く、対立する西本願寺は新政府側との関係を深めていた。幕府がなくなり明治政府が立ち上がった今、東本願寺としても新政府とのつながりを太くしなくてはいけない。そのための献金だったり、政府の政策への賛同である。そこで北海道開拓にも教団あげて取り組むことになった。

 自分の一族の例をとってみても、北海道開拓には「前向きさ」と「後ろ向きさ」が混在している。開拓というのは往々にしてそのようなものかもしれない。イギリスからアメリカへ率先して開拓しに向かった人々は、母国では白い目で見られていたピューリタン(清教徒)だった。新天地へ向かう「前向きさ」と住んでいた土地を離れざる得ない「後ろ向きさ」というアンビバレントな感情が内包されるのが開拓なのではないだろうか。

 住んでる土地を離れざる得ない・離れたい人々を丸ごと受け入れる土地として北海道は機能している。亡命というと大げさに聞こえるだろうが、実際に明治時代に埼玉県で発生した武装蜂起・秩父事件の首謀者だった井上伝蔵は北海道に逃亡し偽名を名乗ったまま天寿をまっとうした。まさに北海道は様々な人々のアジールなのだ。

 北海道というアジールに飛び込んだ人々に共通するのは「やり直し」だと僕は考える。土地を離れ人生をリセットして、新天地で再度人生をやり直す。それは自らの過去へのリベンジであり、人生の再チャレンジだ。今までのコンサドーレにも自分のキャリアの再チャレンジをかけて北海道に渡ってきた選手たちがいただろう。

3.本当のらしさの鍵は「よそもの」にあり

 北海道にはどうも魅力があるらしい。都道府県魅力度ランキングでは14連覇中だ。観光地としての魅力が大きいだろうが、最近は移住地としての魅力も高まっているらしい。海を越えないと訪れることができない地域だが、そんな土地を「いいところ」だと思って住み続ける人もいる。

 考えてみればコンサドーレに関わっている人物は必ずしも北海道出身ではないし、元々北海道に縁があったわけではない。

 主将と社長、U-18監督とトップチーム監督としてコンサドーレにそれぞれ大きな足跡を残した野々村芳和さん(現・Jリーグチェアマン)と四方田修平監督(現・横浜FC監督)は、まったく縁のない北海道に選手とコーチとして降り立ち、そのままずっと北海道に貢献してくれた。河合竜二さんは、2011年に選手としてコンサドーレに加入して以来ずっと北海道と共に人生を歩んでいる。現在はC.R.C(コンサドーレ・リレーションズチーム・キャプテン)としてフロントの一員になっている。

 現役選手では、鈴木武蔵選手がNPO法人Hokkaido Dreamを立ち上げて社会貢献活動に力を入れており、菅野孝憲選手はWish 宮の森という児童発達支援・放課後等デイサービスを経営している。

 名前をあげた5人はいずれもコンサドーレにやってくるまでは北海道に縁がなかった人たちだ。しかしクラブと縁を持ったことをきっかけに巡り巡ってコンサドーレならびに北海道に力を尽くしてくれている(あるいは尽くしてくれていた)。

 北海道とは絶えず「よそもの」を受け入れ、融合し、発展してきた。そのアメーバ性こそ北海道を過去と現在を作り、そして特色ある未来を作るために必要だ。歴史が積み重なったから北海道で完結するのではなく、歴史を積み重ねても外から多くのヒト・モノを吸収して自分のものにしていく。これぞアジールたる北海道だからこそ可能な「らしさ」ではないか。

 ではそんな北海道のためにコンサドーレが果たせる役割とは何か。軸であるサッカーは日本全国、世界中とつながることができる大きなツールだ。コンサドーレはサッカーを通して北海道と他地域(日本も世界も)をつなぐ窓口・架け橋になれるのではないだろうか。

 コンサドーレを通じた北海道の魅力の発信はもちろんのこと、北海道に関わってもらう人を増やしていくこともできるはずだ。現に僕の知り合いには北海道に縁がないのにコンサドーレを応援しているサポーターが何人もいる。この人たちはコンサドーレを通じて北海道に関わるようになったのだ。ユニフォームをデザインしている相澤陽介・取締役兼クリエイティブディレクターも北海道にゆかりある方ではない。

 コンサドーレには北海道にはない文化や人材を受け入れ自分たちの血肉にし、北海道に還元できる力があるはずだ。絶えず異なる文化や人材を入れて化学反応を起こすことでクラブを強くし、北海道に貢献していく。この姿勢こそ「コンサドーレらしさ」という見方はできないだろうか。「北海道とともに、世界へ」だけでなく「北海道に、世界を」もたらすことも可能なのだ。

 以上の考えに基づいて、地元出身やOBにある程度こだわってクラブを組織することが必ずしも「コンサドーレらしさ」ではないのではという問いを持って、僕はコンサドーレの歴史を自分なりにひも解いていきたい。

 歴史をさかのぼり、掘り起こすことで地元の人間だけではなく、よそものがコンサドーレと北海道に与えた影響、作り上げてきたものも見つめることで、コンサドーレの未来を考える。もちろん歴史を振り返った結論が、今立てた問いがまったく成り立たない場合もあるだろう。それも一種の成果だ。

 サッカーだから、コンサドーレだから、北海道にできることがきっと歴史の中にヒントが眠っている。そう信じてこの不定期連載を始めることにする。

◎次回予告(連載未定)
クラブ前史―なぜ古きコンササポは北電のSNSに感慨深くなったのか【僕のコンサ史・1章】

4.参考資料

◎宇都宮徹壱『J2&J3 フットボール漫遊記』
 「日本のビルバオ」の話は、本書のコンサドーレの章に記載。

◎山室信一『キメラ』
 満洲国について思想面を中心に掘り下げた本。今回書いた「北海道=アジール」説は、この本に影響された。

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