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すべては「天皇」と「天皇の軍隊」のために―小林道彦『山県有朋』


1.象徴としての山県有朋を解体する

象徴とは恐ろしいものだ。一人の人物が何かの象徴に擬せられると、その人自身の人格や生き様が「何か」によって規定されてしまう。人がいるから「何か」が生まれて定義されるのに、「何か」によって個人が個性を失い定義される。

この本の主役である山県有朋はまさに「日本陸軍」、「軍国主義」、「藩閥」といった現代では負のイメージを持ったものの象徴として擬せられやすい存在だ。

そうした象徴として擬せられた山県はもはや山県本人ではない。本来なら「山県がこういう考えと生き様だから『日本陸軍』の体質につながる」と言われるべきところを、「『日本陸軍』の体質がこうだから、山県はこういう人物だ」という形から山県像が作られてしまう。結論から導かれる山県像である。

本の帯に「圧倒的な政治権力」と書かれているように、山県が握った権力は絶大なものだ。敵からすれば嫌悪や憎悪の対象である。彼の異常なところは80歳を過ぎてもなお権力意志が衰えなかった点だ。その権力の源はどこにあったのか。山県本人はどのような信念と能力を持っていたのか。それは陸軍や藩閥の力だけでは簡単に説明できない。

2.本当は大嫌いだった「軍隊の政治化」

確かに陸軍は権力基盤の一つだ。彼は徴兵制を導入し、日清・日露戦争も戦いぬいたレジェンドである。陸軍は、昭和時代に入って積極的に政治に介入することで結果的に日中戦争や太平洋戦争参戦の片棒をかついだ。この経緯もあって山県も陸軍の政治介入を志向していたと思われるかもしれない。

まったく逆である。山県は「軍隊は政治に介入しない」という原則をずっと貫いた。そもそも彼が導入した徴兵制は、政治と軍隊が交じり合わらせないための制度である。士族中心の軍隊ではどうしても政治性を帯びてしまう。日本の軍隊は「天皇の軍隊」である。天皇はすべての政治的対立から超越した存在という建前を山県は忠実に守ろうとしていた。

しかし原則や建前はあくまでも原則や建前に過ぎない。これを忠実に守っては時代についていけない、そう考えた軍人たちがのちに登場する。その中には山県の権力基盤である同郷の長州閥軍人もいた。そう、軍人だからといって山県に何もかも従うわけではないのだ。だから彼の死後、堅持していた原則や建前は解体されていく。

山県は自らと考えを同じくする後継者を自分の権力基盤から見出すことができなかった。直属の後輩にあたる桂太郎や寺内正毅は、彼ら自身が有力者になればなるほど山県から離れる動きを見せたり、意見が対立して険悪な関係になっていく。桂は互いに互いを見限る形で袂を分かち、寺内は体調悪化の中、山県との折衝でさらに心身をすり減らしボロボロの状態で首相を退任した。

山県が最後に自分と志を同じくする者と定めたのは、平民宰相・原敬だ。彼は山県の影響下にあった人間ではない。むしろ山県の盟友かつ最大のライバルだった伊藤博文の系譜に連なる者である。だが原も首相在任時に暗殺され、山県は一人取り残されてしまう。

ちなみに政治的な後継者ではないが「天皇の軍隊」という原則を忠実に守り、軍の政治介入に大きく抵抗した人物がいる。かつて山県のもとで副官を務めた陸軍大将・渡辺錠太郎だ。陸軍内部にはびこる政治介入の動きを教育統監として断固たる態度をとり続けた彼は、そのキャリアからしても山県の志を引き継いだ軍人といえるかもしれない。だが渡辺は二・二六事件で同じ陸軍軍人たちによって非業の死を遂げる。原に続いて山県の志はまたしても絶たれることになった。

山県は渡辺のことを非常に高く評価していたとされている。だが渡辺自身は長州出身ではない。山県は「藩閥」に象徴されるような縁故主義で自分の権力基盤を固めたイメージに思われがちだ。しかし徹底した実力主義による人材登用も山県を支えた武器の一つだった。

3.勤王でのし上がり、勤王により死す

彼の権力基盤を支えた存在は大きく3つある。一つは陸軍、もう一つは官僚だ。残りひとつは後で言及する。

山県を支えた官僚(山県閥官僚)の有力者を調べると出身が非常に幅広い。中には「賊軍」と呼ばれた旧幕府側地域の出身者もいる。

彼は異様なまでの用心深さと警戒心で人と接する反面、聞き上手でもあった。その慎重な態度で能力を見極めて「こいつだ」と思った人物は積極的に登用し、彼らの貢献に対しては自分の権力をフルに活用して報いた。

そんな山県の必殺技が「思いもよらぬ秘密をこっそりしゃべる」だった。普段は用心深く警戒心たっぷりで何を考えてるかわからない上司が「自分にだけ」ぽろっと機密事項を打ち明けてくれる。自分を信頼してくれ、成果の暁には見合った地位と名誉が与えられる。高い能力と上昇志向がある官僚はさぞ働き甲斐があったのではないだろうか。

さて、山県の権力の最大の源泉であり、彼の確固たる信念を形作る存在が「天皇」である。

山県は二度首相になっている。その中でもとりわけ強い手腕を発揮したのが第二次山県内閣である。実力主義でそろえた選りすぐりの部下(官僚)たちによる政策立案・実行能力に加えて、明治天皇からの圧倒的な信頼が山県に強気かつ的確な政権運営をもたらした。

彼は「勤王」を自称してはばからないし、天皇からの信頼が自らの権力のよりどころであることに自覚的だった。それこそ自分のあるべき姿だとも思っていた。

明治天皇が亡くなり、大正天皇に代わってから歯車が少しずつ狂っていく。下の世代の突き上げはもちろん、明治天皇ほどの信頼を大正天皇からは得られなかったからだ。

だからといって山県の勤王精神は衰えない。大正天皇が病弱であったことから、晩年の彼は原敬と協調して皇太子(裕仁親王)の育成に力を注ぐ。反対者がいる中で皇太子の外遊を実現させたのは、山県の鉄の意志と原の手腕があってこそだった。

しかし山県を待っていたのは皮肉な落とし穴だった。皇太子の結婚をめぐる問題で「勤王家」たちによって大きな非難を浴びた彼は自らの政治生命を実質絶たれてしまう。

「自らは勤王に出て勤王に討ち死にした」

天皇を己の人生のよりどころにした自分が、同じく天皇をよりどころにした人々によってすべてを失われた最晩年。悲劇であり喜劇といえるかもしれない。

漠然としたイメージを本書で取り除いても、山県の評価は好意的な面と否定的な面を両方持ち合わせたものになる。彼に玉虫色の評価は存在しないのではないか。

山県有朋という人間は己を曲げない。曲げないからこそ後世から見ると、置かれた状況に応じて彼の選択や考えは正解か不正解かはっきりする。

固定観念で見るのをやめたとき、山県は人間のすごみも弱みも悲喜こもごもも凝縮されたひとかどの人物として浮かび上がってくるのだ。

4.参考資料

伊藤之雄『山県有朋』
僕の山県に対するイメージを変えた本。小林さんの本よりも、人間・山県有朋に重点が置かれている。自分を凡人と思う人ほど彼を愛おしくなるだろう。

小林道彦『近代日本と軍部』
小説を読んでいるかのようにわくわくした歴史書。この本における小林さんの文章にはなぜかロマンを感じる。

岩井秀一郎『渡辺錠太郎伝』
名著オブ名著。「天皇の軍隊」の建前を引き継いだ渡辺がいかにして政治介入を志向する軍人と戦い、散っていったのか。この本によって渡辺の凄みがはじめて世間に明らかになったといっても過言じゃない。


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