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権力の生み出す主体性~ミシェル・フーコー:キャリアと学びと哲学と

2010年に社会保険労務士試験に合格して今は都内のIT企業で人事の仕事をしています。社会人の学習やキャリアに関心があって、オフの時間には自分でワークショップや学びの場を主催することを続けています。その関心の原点は、学生時代から哲学書が好きでよく読んでいたことです。キャリア開発や人材育成の研究には、哲学からきた言葉や考え方が用いられていることが少なくなく、哲学の知見の活かし方として非常に興味深いのです。キャリアに関心のある社労士という私の視点から、哲学のことをお話しできたらユニークなのではと思って、この記事を書いています。

自己紹介


ポジティブな権力

今日のテーマはフランスの哲学者ミシェル・フーコーです。1926年に生まれたフーコーは、ゲイであることを公に認めた後、エイズを発症し、1984年に54歳という若さで亡くなるという人生を送りました。その時代を象徴した生き方と相まって、20世紀後半の哲学世界で最大のビッグネームと言える人です。

ゲイというマイノリティを生きたフーコーの哲学テーマは、精神医学、狂気、監獄、性と、それまでも哲学的伝統からすれば非常にマージナルな領域を攻めたものでしたが、それゆえに既存の知の枠組みを大きく揺るがせるものでもありました。そのなかでも、今回は彼生涯のテーマだった「権力」についてお話ししたいと思います。

哲学にさほど詳しくない人にもフーコーといえば権力論として知られるほど、フーコーの権力理論は有名なものです。フーコーの理論は、それほどまでに権力に対する見方を一変させてしまいました。

フーコーが世に出始めたのは1960年代から1970年代、そのころ哲学界をリードしていたのは、ジャン=ポール・サルトルを中心とする実存主義でした。実存主義は人間の主体的な意志や自由を絶対的に信頼し価値を置くグループです。人間は自分の意思で自分のなりたい姿になることができるし、世界を変えることもできると彼らは信じていました。当時は学生運動が盛んで革命の可能性もまことしやかに語られていた時代です。時代の熱量を帯びたパワフルでポジティブな知のスタイルが実存主義でした。

実存主義的な人間観に対してフーコーは冷や水を浴びせるような強い批判を加えることになります。そこにフーコーの権力論のオリジナリティがあります。

実存主義にとって権力とは端的に悪でした。人間の自由意思を何より大事にする実存主義の社会観では、社会は抑圧者と被抑圧者、支配者と抵抗者、強者と弱者といった二者の対立でできていて、上から下に働くネガティブな力こそ権力でした。やりたいことをやらせない力であり、人間主体の意志を抑圧する力であり、権力とはそのような力だと考えていたわけです。

実存主義の権力観では、少数の権力者が底辺にある多数の人々を押さえつけるというピラミッド型のマクロな図式が権力の構造となるわけですが、反対にフーコーは、ミクロな作用として権力の働きを考えていました。日常生活の中で人と人が関われば否応なく生まれてきてしまう力関係、権力とはそのようなものと考えていました。たとえば、気になる異性に振り向いてもらいたくて気を引くような優しい振る舞いをしてみせるとか、SNSでバズりたくてすこし過激な投稿をしてしまうとか、強豪相手に勝つために営業先に何度も足を運ぶとか、すべて自分の望む結果を得るためにする行為は、フーコーにしてみれば、権力を行使する行為です。権力の行使は、上司が部下に対して命令をするような、上から下への力ばかりが権力ではなく、ミクロの人間関係の中で水平方向にも作用するのです。

要するに、権力とは人を動かす力となります。自分にとって好ましい行動をするように他者を仕向ける力とも言えるでしょう。だから、フーコーは権力を否定的(ネガティブ)な力ではなく、むしろ積極的(ポジティブ)な力だと論じています。ポジティブな力とは、何かを否定するのではなく、何かを生み出す力ということです。

では、権力が生み出すものとはどのようなものでしょうか。それは、自分にとって望ましい行動を他者にさせるものです。それを一言でいえば「欲望」です。特定の行動を「したい」と思わせる、そのような欲望をつくること、それこそ権力の作用です。

だから、権力というものは嫌がられたり、疎まれたりするものであってはならないのです。無理やり圧力をかけて言うことを聞かせるというのは、権力の行使としてはむしろ下策です。むしろ、積極的に欲望されるくらいでなければなりません。権力は好ましいもの、望ましいもの、人気のあるものでなければならないのです。


「知」と「権力」

権力とは喜ばしいものであるとは、実存主義的な権力論とは間逆の権力理論です。しかし、「だから素晴らしい」とフーコーが称賛するわけではありません。むしろ、そのように精緻かつ巧妙に行使されるものだから批判しがたく、逃れがたいものとして、批判しなければならないのです。それはたいへん難しいことです。

フーコーの権力批判は「統治」という言葉で展開されます。国家制度は統治の技術を複雑に発達させて人々をコントロールしているわけですが、フーコーは統治の技術の多様なあり方を次々と暴きだしていきます。

国家による統治のシステムにおいても権力は欲望を生み出す力であることに変わりはありません。人々のミクロな生活の中で生じる欲望をひとつに集め、国家レベルの規模で、欲望の流れをまとめ上げていくことが、統治の技術です。フーコーはその代表的な技術を「知」(サヴォワール)「権力」(プヴォワール)として論じています。

「知」は社会的地位に結びついています。たとえば、医師や弁護士といった知的職業は多くの人に憧れられる職業です。社会的に地位が高くて人々の尊敬や行為を集めるし、子どものなりたい職業ランキングでも上位にくる仕事です。医師や弁護士になりたいと望む人は数多い。しかし、誰でもなれる仕事ではありません。医師や弁護士になるためには勉強が必要です。「知」を身に着けないといけません。「知」とは人々に望まれるものです。

しかし、どんな「知」でもよいのかといえば、そうではありません。ニセ医療や疑似科学のような知識では医師にはなれませんし、過去の判例を無視した思い込みだけを口走る人も弁護士にはなれません。医師や弁護士になるためには、決められた「知」を身につけなければいけません。だから、医師や弁護士を望む人はみな医学部やロースクールに通い、医師国家試験や司法試験にパスすることを目指すのです。

統治の権力はここで「知」の選別として機能します。何が学ぶべき「知」で、何は学ぶ価値がないのか。それを決めるのが統治の技術です。選ばれた「知」を身に着けた人は、医師や弁護士として、社会の上位階層へと進むことができます。だから、人は「知」を欲望します。

そして、「知」をすでに保持している者にとっても、自身のもつ「知」が欲望されることは都合のよいことです。自分の「知」が欲望されるということは、自分の地位も欲望されるということです。自分の地位が望ましいと認められていれば、自分の地位は安泰です。「知」をすでに保持している者は自身の「知」を欲望するように誘います。そして、新たにその「知」を得た者もまた次の世代に自身の「知」を欲望させるのです。「知」と「権力」をめぐる統治の構造は循環するエコシステムです。そうして「知」は再生産され、権力の仕組みもまた更新されるわけです。

大事なことは、ここで「知」を求める若い世代は誰も強いられて「知」を得ようとしているわけではないということです。むしろ、「知」を価値あるものとして進んで得ようとしている。きわめて主体的で自由な意志決定のもとで「知」を選んでいるわけです。

これは実存主義の人間観を根底から覆すものです。実存主義が賛美した人間の主体的な自由、自分の意思による選択、それ自体が権力によって仕組まれていたものだとしたら。むしろ、主体的に自身の意思で権力の望むようなあり方を選び取っていたとしたら。英語の「subject」という言葉には、「主体」と「従属」というふたつの一見相反する意味があります。しかし、フーコーにしてみれば、主体と従属はまったく同じことです。人は主体的に従属を選択するのです。人間の主体性こそ、実は、統治権力が発明した支配の技術、その最たるものだったのです。


主体を構成するディシプリン

フーコーによれば、権力は欲望を通じて「主体」を構成します。主体は統治権力にとって望ましい欲望をもつものです。だから、主体は統治権力に従属する存在へと率先して自らを形成していきます。このように自主的な自己統制をさせる権力の働きを「規律/権力」(ディシプリン)とフーコーは名づけました。

現代社会の人間はまず学校でディシプリンを身に着けます。まず毎朝同じ時間に登校をします。国語、数学、理科、社会と決められた教科を学びます。運動をして体を鍛え、クラス行事や担当の係では同級生と協調する集団行動を求められます。ディシプリンは身体的な実践であり、自身の身体を社会に適合させていくプロセスです。

ディシプリンを通じて主体は自己の欲望をコントロールできるようになります。美味しいものを食べたい、ゲームをしたい、眠りたい、異性と遊びたいと様々な欲望は押さえつけ、学校では勉強を選ばなければなりません。言い換えれば、「勉強したい」という欲望をもたねばなりません。そうして、不適切な欲望を抑圧し、適切な欲望だけをもてるようにならないといけないのです。

教育とディシプリンは密接な関係があります。学校で、主体は言葉遣いを正され、時間や順番を守るように指導され、我慢をする術を身につけます。こうして、人間社会に適合した主体が作り出されていきます。これらの主体は、人間社会の生活を乱すような欲望を抑圧し、集団からはみ出すこともせず、誰もがみなと同じように振る舞うことができる存在です。このような主体のあり方をフーコーは「正常」(ノルマ)と定めます。

ここで権力とは、「正常」いわゆる「普通」を定めるものとして働きます。学生として、あるいは、社会人として、人間としての「普通」の姿です。「普通」は誰もがそうであるはずのものですから、容易に「あるべき姿」へと転じます。権力は「正常」を定め、そこから逸脱する人を「異常」として排除していきます。みな同じが正しい姿であり、みなと違うことは認めないというわけです。こうして、権力は人間を標準化されたひとつの規格としていきます。

「普通」ということは誰と誰を入れ換えても大きな問題が起きないということです。「正常」とは交換可能ということです。しかし、人間社会の安定のためには重要なことです。工場で生産される機械部品とも近しい話です。機械部品の規格が統一されていれば、どこの工場で生産された部品でも同じように使用することができます。工場ごとに生産する部品が違っていてはロスばかり大きくなってしまいます。そして、規格の部品が標準化されていれば品質も安定します。ある工場で生産された部品は品質が劣るというのではトラブルが起きてしまいます。規格化と標準化が完了しているからこそ、日々の作業を安心して進めることができるのです。

学校を通じて人間を規格化/標準化することも同様です。北海道で生まれても、関西で生まれても、九州で生まれても、学校で「普通」に社会生活に必要な標準的なスキルを身につけてきたというのであればこそ、どこで生活をしても安心ということになります。自分たちの所属する集団やコミュニティにどんな人がやってくるのかわからないというのでは、安心できないでしょう。

髪型の自由を認めないブラック校則の話だとか、そろって黒髪にリクルートスーツの就活風景が異様だとか、ニュースに取り上げられてしばしばSNSをにぎわせます。それはまさに正常を強いる権力の現れなのですが、ただし、それを悪と即座に断じてよいかは難しいところです。

髪型を自由にすることを許すなら約束の時間に遅れてくることも許すのでしょうか。黒髪にリクルートスーツを自由にするなら、寝起きのまま寝ぐせのついた髪とパジャマで面接に来てもよいのでしょうか。遅刻をしないことも、顔を洗って髪型を整えることも、要求するなら、それも権力です。それらはすべてグラデーションの濃淡であって、どこかで線引きができるものではありません。

正常と異常の線引きをする権力の作用には暴力的な側面がたしかにあります。反面、どんな欲望も許されるべきとしてしまえば、人間の社会的な営みは崩壊してしまうでしょう。人間社会を維持しているのもまた権力なのです。権力は社会の土台として働いています。権力それ自体は善でも悪でもないということをあらためて思い出しておきましょう。いずれにしても、教育に携わる人はどんな形であれ、教育は権力の行使なのだということを自覚する必要があります。

ここまで権力のメカニズムを追ってきました。ポジティブな力としての権力は人の欲望を形成します。その欲望は無意識的に作用するので、人間主体は自分がコントロールされているという自覚なく、統治権力にとって望ましい行動を率先してするようになります。それがディシプリンとしての権力です。ただし、統治権力に望ましい振る舞いをすることは主体にとっても恩恵があることは忘れてはなりません。社会的地位の高い職業に就けたり、高い収入を得られたりします。誰もが同じような欲望をもつようにすることで、次に統治権力は「普通」を生み出します。みな同じように普通であれば暮らしは守られる。そのように安心を保証することで秩序を維持するわけです。問題は、「普通」からはみだしてしまったマージナルな存在です。「普通」になれなかった存在は「異常」として世界から排除されてしまいます。フーコー自身がそうだった同性愛者のように。


それでも権力に抵抗するには

権力は欲望を生み出します。そして、正しく欲望できる人間を正常と定めます。この権力の作用によって人間社会は安定します。社会の安定には人間主体の権力への自主的な従属が欠かせません。しかし、自分の人生の自律をそうして奪われてしまうことが、おもしろいことではないのもたしかです。とくに正常からズレてしまったことで異常とみなされてしまうような人にとってはなおさらです。でも、統治の権力に抵抗をするにはどうしたらよいのでしょうか。

残念ながら、フーコー自身はその問いに形を与える前に夭逝をしてしまいました。ただ、「パレーシア」「生存の美学」という言葉でつづられた晩年のテキストからは、統治のシステムの中で個人がいかにして自身の人生を全うできるのかについての思索の痕跡が読み取れます。

人間の純粋な自由意志などどこにもないことをフーコーは暴いてみせました。人間はすべて世界の中へと生まれてきます。世界にはつねにすでに先人たちの重ねてきた歴史の厚さがあって、自由に選択できる可能性は無限ではありません。人は限られた選択肢の中で人生を選び取っていくほかないのです。とはいえ、唯々諾々と与えられた選択肢を選ぶことばかりが人生の選択でないこともたしかです。

「大卒でないから」「30歳だから」「男性/女性だから」といった言葉がキャリアの選択にはついてまわります。そのように選択肢を限定しようとする働きは、間違いなくミクロの権力の作用です。そうして、標準化・規格化された生を再生産しようとしているのです。

でも、そのとき「大卒でないけれど」「30歳だけれど」「男性/女性だけれど」と言い換えることもまた、できるはずです。そうして、権力の働きの方向をずらしていく。権力は無視することも完全に打倒することもできないけれど、受け流したり、かいくぐったりすることはできる。そうして、自分の人生の選択を守っていく。それこそフーコー流の権力への抵抗だったのではないかと思います。

最後になりますが、人間の意志の自由を否定したフーコーの議論は用法用量を誤ると危険な劇物です。性についての議論も数多く残してきたフーコーは、いまやジェンダー論を学ぶ際には避けて通れない存在となりました。たとえば、フェミニズムの一部の文脈では、「結婚して専業主婦を選ぶ」とか「育児のために退職をする」とかの女性自身の意思決定があった際に、それは女性が「選ばされた」のである、男性優位の社会構造が女性の選択肢を「奪った」からであるといった議論が存在します。これはまさにフーコーの実存主義的自由批判を受けた議論です。一面において理解できる部分もあるのですが、しかし、すべてを男性社会に仕組まれたことと断罪していては、反対に女性自身の責任や意志というものの一切を否定してしまうことにもなりかねません。

フーコーは統治権力を批判するときでさえも、すでにつねに世界に存在してしまっているシステムそのものを破壊してゼロから作り直そうとする革命的思考は選択しませんでした。そして、既存世界の前提を一切無視して自由に人生を選択できるべきだと主張することもありませんでした。もしそれができると主張してしまえば実存主義へと反転してしまいます。

統治の権力は主体に選ばせる権力ではありますが、その扱い方を誤れば、安易に世界は何ものかによって裏側から操られているという陰謀論へと転じてしまいます。だから、フーコーに学ぶ身としては、「ガラスの天井」とか「ホモソーシャル」とか「家父長制社会」とか安易で粗雑な言葉(そもそも、それらは一種の陰謀論でしょう)で世界を断じて語った気になることは厳に戒めねばならないのでしょう。

フーコーは世界を非常に多様で複雑なものと考えていました。何が正義で、何が正解であるのか、クリアなものは世界のどこにもなく、ミクロにマクロに影響しあう権力関係が網の目のように張り巡らされているなかで、私たちは生きていかなければなりません。権力の複雑さを受け入れて、それでも流されず、バランスを取りながら自分の人生のかじ取りをしていくこと、現代社会での人間の自由は、そうした形で残るのではないでしょうか。


【了】

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