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事勿れ主義

 事勿れ。
 遡れば与謝野晶子も自著のタイトルにしたセリフであるし、僕のような大学生の生活の軸になっている言葉でもある。
 太陽が沈み月が昇るように、当たり前のように働き、眠る。
 楽しいことと悲しいことがそれぞれの尾を追い回しあっているような日々を過ごしていくうちに、何かを成し遂げようという大志は薄れて消えていったようだ。
 無論君死に給ふ事勿れであるし、我死に給ふ事勿れでもある。人を殺すのも、人に殺されるのも勘弁である。
 ただただ面白おかしく日々を過ごしていくうちに、まだ何も成し遂げていないという漠然とした意識だけが残る。
 私は、何者でもない。
 ただ、反対だ。エゴのみが私なのだ。
 社会に出ても無用の長物。私を必要としている人間は私以外にはいやしない。
 私は、社会にとって、なんの存在価値もない。
 故に「何者でもない」といえる。
 事勿れの精神とは、社会と自己の間の中立である。
 自己を優先すれば社会に弾かれる。
 社会を優先すれば自らを迫害する。
 故に、事勿れである。
 平和主義ともひとつ違うのである。他者を恐れるこの臆病な精神は、いつだって何かを失わせてきたのである。
 自らを抑えれば他人を立てられる。その場を切り抜けられる。
 他人を立てて自分の自由圏を少しずつ広げていき、呼吸できる時間を徐々に伸ばしていくのだ。
 事勿れとは、言い換えれば対社会忍耐である。
 耐えて、耐えて、それで勝ち取るのだ。
 勝ち取ると書くとプラスの印象を与えがちだが、事勿れの先にある勝利像は崩れかけの彫刻のようである。
 ただ、立っているだけである。
 それでいて、それがそれであるとわかりはしない。
 事勿れ主義の果てに、その自己の美などは存在しないのだ。
 耐えきった先の人生をそんなボロボロの貧しい身体で生きていって、幸せになれるはずがあろうか。
 生きるという果てしない消耗戦において、ただ一時の幸せを得るためだけに異常な忍耐を敢行する必要があるのだろうか。
 ヨルシカの曲のフレーズに、こんなものがある。
 『事勿れ 愛など忘れておくんなまし』
 事勿れ主義の先には愛も、希望も、夢も、ありはしないのかもしれない。
 だが、自我に従い生きることは、あなたの持つ八方美人的な生きざまへの諦観を象徴するのみで、第三者から見ればただの嫌な奴になってしまうかもしれない。
 再考すべきは、エゴとは何か。為すべきこととは何か。
 自我のままに生きるべきか、それとも。



引用元:ヨルシカ「春ひさぎ」


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