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【掌編小説】歩け、歩け、歩け

 ずっと前、私が小学生のころのことだ。どういう流れでかはもう思い出せないが、私は母にこんなことを尋ねた。

「お母さん、私にどんな子になってほしい?」

 どんな答えを期待していたのか。案外頭に浮かんだ言葉を考えなしに口にしただけだったのかもしれない。

 西日が差し込む台所で、確か母は夕食を作り始めていた。幼い私はいつも、調理の作業台を兼ねたダイニングテーブルの自分の席につき、母にあれこれ話すのが日課になっていた。

 台所は狭く、キッチンとテーブルの間は人一人がやっと通れるくらいのスペースしかない。そのとき私は母の背中を見ていた。トントントンとリズミカルな音が背中越しにしていたから、何かを刻んでいたのだろう。その音が緩慢になり、やがて止まった。

 母は顔を少しこちらに向け、しかし目は合わせずに口を開いた。

「いつまでも、歩ける子でいてほしい」

 おばあちゃんになった私の話?
 当時の私は、なんて先の話をするのだろうとおかしくて楽しくてしばらく笑っていた。

「お母さんは、笑ってたっけなあ、そのとき」

 リビングのソファに寝転がりながら、目線を台所に向ける。母が出かけて無人のそこは、西日でオレンジ色に染まっていた。

 母が出かけていたり、寝ていたりする間だけ、私は一階のリビングに下りてくることができる。
 中学生のときに仲をこじらせて以来、私たちの間には暗く深い溝が開いたままになっている。もう十年もほとんど言葉を交わした覚えがない。
 そんな母との暮らしが嫌で、専門学校を卒業してすぐ私は家を出た。

 しかし二四歳の今、私は実家にいる。ここでひととき暮らしている。

 正直、参っていた。疲れ切っていた。

 一年前から、会社で嫌がらせを受けている。

 営業主任の男性が一人でしていることだが、無視され、ありもしない噂を同僚から上司にまで流され、人前で罵倒される。こちらも屈するものかと意地になっていたら、それが彼の性悪の燃料となった。嫌がらせはエスカレートし、ついに私は会社で孤立した。

 家に帰り着くなり泣き崩れる日が続き、そんな状態で父からの電話に出たものだから、実家に戻るよう厳命が下ってしまった。
 以来、私は実家で暮らしている。もうすぐ有給も尽きるが、もう何もしたくなかった。

 動くことも考えることも煩わしく、このまま空気に溶けてしまえればいいのにと毎日思っている。

 心ごと真っ黒な沼に沈み込んでいく感覚がして、私は目を閉じた。


「歩け!!」


 心臓が飛び跳ねる。

 突然の大声に驚いて身を翻し、勢い余ってそのままソファから落ちてしまった。

 母だった。ソファのすぐ後ろに仁王立ちになり、私を険しい目で見下ろしている。

 母は眉間にシワを寄せ、もう一度、今度は私の目を見て大声を出した。

「歩け!歩け!!歩け!!!」

 ほとんど叫びながら、ソファの背もたれをばんばん叩く。

「あんた何してんねん!いつまでおんなじとこにおるつもりや!立ち止まってたら、いつまで経っても嫌なことから、嫌な場所から前に進めへんやろ!」

 私は呆気にとられ、いきなり何言うてんねんこの人と母を上目でにらみつけた。

 そうやって反発心を表に出さないと、心の震えが顔に、目に、唇に出てしまいそうだった。

 そうして乱れる感情を元に戻そうと努めながら、不意に気づいてしまった。

 幼い私に向けられた母の言葉の意味を。

 母は背もたれをつかんで体を乗り出し、さらに言い募る。

「立ち止まったらあかん、ずっと歩き続けるんや!歩いてれば、楽しいことに出合えるかもしれん。きっと幸せも待ってる、きっと……」

 言い終えないうちに母の顔が俯いていく。


――遠い日のあの言葉は、私の老後の話などではなかったのだ。


 微かに震え、決して顔を上げようとしない母を見ながら、私は子供に戻ったように泣きじゃくった。泣いて泣いて泣きまくった。

 そして泣くほど澄んでいく頭の片隅で、今、生まれたばかりのイメージが動き出す。

 まっすぐ遠くまで伸びる道を歩く私。ゆっくりでも、転んでしまっても、とにかく歩き続ける私。先に進むにつれて両側の景色は変わっていく。暗い場所はやがて過ぎ、明るくおだやかな場所が現れる。

 そうやって私は生きていく。死ぬそのときまでずっと――。

 母が、ふ、とため息をつき、静かに台所に向かう。
 私は何度もしゃくり上げながらなんとか立ち上がり、その背中を追った。

 ふらふらとゆっくり、歩き出した。


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