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いじめを振り返る

※重い話です。


学生の頃いじめを受けていたことがある。

それは2〜3年は続いた。私にも原因はあったのかもしれないが、その頃の私には改善の余地はなかった。

いじめの影響

日記にその頃の気持ちを全部吐き出して書き出してみた。

人生で一度向き合わないといつまでも乗り越えられない気がした。

いじめは人生が歪められてしまう。

いじめを受けた側はこうして今でも引っかかっている。

心に受けた傷は大人になっても癒えず、まだ怨念を送り続けている。

つまりは過去を振り返り続けているということは私の人生の多くをそのことに心を傾け続ける時間にしてしまっている。


そして自己肯定感の絶望的な低下。

個性的であること目につくことが怖くなる。

できるだけ出る杭にならぬように自分の願望を殺して、服も態度も“普通”であることだけに必死になった。

自分はありのままの自分では受け入れてもらえない。普通でないと人は掌を返したようにいなくなってしまうと思うようになってしまった。

サイコな生きる覚悟

いじめや悪口は毎日だった。先生も私が悪いというような意見だった。家族にも言えるキャラではない。

実際に死ね。消えろ。と聞こえるように言われたこともあった。

そうしてだんだんとこう考えるようになった。

「憎いこの人たちの望みを叶えるために自分が死ぬのは嫌だ。
大切でもないこの人たちのために自分の命を捧げるなんておかしい。
だったら殺されよう。そうすればこの人たちの人生に復讐できる。」

とてもサイコだが、学校は絵を学ぶことのために一生懸命努力して入った。それは私の夢だった。
自殺は自分の夢より相手の望みを叶えるようで私は嫌だった。
その人の「ために」死ぬことはまるで自分の人生の一大決心をするほど大切な存在にその憎い相手がなってしまうのが嫌だった。
相手を殺すのも自分が被害者なのに、相手に被害者面されるのも嫌だった。
憎い他人のせいで自分の人生を左右されるのが嫌だった。
鬱と夢の狭間でそんな恐ろしいことを考えていた。

だからどれほど嫌がらせをされても毎日図太く登校し続けた。そして相手が本当に私が嫌いになって我慢できず殺されるなら殺されてやろうと覚悟したのだった。

結局誰も私を殺すことはできなかった。

私はどうにか自分の人生を嫌いな他人のために捨てることはしないですんだ。

今気づくこと

苦々しい気持ちで書きまとめている時気づくことがあった。

いじめを受けて苦しい時、一人だけ友人ができた。

私は私が近寄ると皆同じ目に遭うのを恐れて表面的に会話をささっとするくらいだったり、避けるような素振りをしていたが、その人だけは全くお構いなしに近づいてきた。

ある意味で空気が読めない人なんだろうが、わたしがどんな扱いを受けていようが、どれほど避けられていようが無関係に妙に話しかけてくるのだった。その人がきっかけで少しだけ友人の輪を広げる助けをしてくれたのだった。

私は普通である努力をしないと受け入れられないと思いこんでいたが、見えにくい場所で自分がどんなであろうと受け入れようとしてくれる人が人生のあらゆる苦しい時には実はいたのだった。

当の私は完全に冷静ではないのでその存在の大切さを気づいていない。そしてみんなを疑の目で見ていたからその人もそうだと思っていた。でも後々考えると純粋に慕ってくれていたことがわかった。

そして

自分が一生懸命普通になって個性を潰して認めてもらおうとしていたコミュニティには本当に価値がなかったこと。

今後も会うこともなければ、結婚式も葬式にも参加する気もない関係。

自分を殺してまで認めてもらう価値もない。自分が命を捧げる価値もない。認めてもらう努力もコミュニティに入ろうと必死になる価値もまたなかったと思う。

その頃の私にとっては、そこが世界の全てだったし、認めてもらえないことが全てを失うほどで生きていけないのではと思ったし、逃げる場所を知らなかった。

これからの私

この傷を癒すのは無理だろう。下手に学びをここから出してくるのも自分にとって無理な納得を強いているのがわかる。

人生を書き出して思ったことは、

やっぱりいじめた人たちをいまでもゆるすことはできない。一度自分は許すと大人になろうと思ったが心の奥では今でも怨念を送っている。
正直そいつらの子供もいじめられろと思っている。復習するつもりはないが。
許せるほど大きな人間ではないし、自分を傷つけた人を許す必要ってあるのだろうか。許すとしたら自分「が」間違っていたと認めてしまうようでもある。嫌いだという感情もまた私の素直な感情なんじゃないかと思うし嫌いな人を避けてもいいはずだ。

そして美術を学んでいた私にとって、いつも絵で表現することで自分を現していたし、逃げ場所にしていた。殺して抑圧した個性を唯一表現できるのがいつでも絵だったこと。

どこかでいつも個性に憧れている。自分を隠すことなく現せる変態的な人間に憧れる。絵の世界だけ表現できていたのは救いだったが、それは現実の世界でも自由になりたい叫びのようだった。

そして関わる価値のないものに人生の選択を委ねさせないこと。

死ぬことも生きることも。自分の個性を活かして生きることも。自分を傷つける他人のためにささげないこと。

せめてなら愛する人のために命を捨てるならマシだが。
嫌いな人、知りもしない人、興味もない人のために自分の人生を捨てるなら、その人のことが自分の人生で一番大切なことになってしまう。

どうせなら自分のために自分を捨てたい。そう思うようになった。

自分の個性を殺してまで入り込まなければいけないコミュニティなどない。そしてそこまでする価値もない。

井の中の蛙で、自分たちの輪に入らなければ村八分にするコミュニティは出る杭を打ちマウントして個性を殺す。

自分にとって本当に素敵な特性を奪われてしまう。

人生の楽しさはその抑圧していた個性が解放されている時に感じるものなんではないかと思う。それを自分らしいというのかもしれない。

そしていつも見えないところにいる、演じていない個性むき出しの私を受け入れてくれる少ない人間こそが本当に大切にすべき存在だ。そしてそんなふうに私もなりたいと思える。


これは命が大切とか同じ境遇の人にどうこう言いたいわけではない。
こうすればいいとか言いたいわけではない。
あらゆる状況であらゆる苦しみを抱える人の気持ちをわかると言いたいのでもない。
ただ自分の人生を振り返えってみただけで、自分の頭の整理のためだ。
私がこれを乗り越えていくためにしたまでです。

とても重々しい話でした。。。

よくがんばってきてくれたありがとう自分。

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