ウンベラータに学んだ日 日記
2メートルはあるフィカス・ウンベラータという観葉植物が半額で売られていた。
なんだかこの子に親近感を覚えるのだった。
その日の私は憂鬱だった。
なんだかたまに自分が消えたくなるほど不甲斐なく思える時がある。
わかってはいてもどうしても比較してしまったりして落ち込んでしまったりする。
したいことをしているはずの自分の今の仕事が行き詰まりを感じたり、マンネリを感じたり、かといって他にしたいこともない。
バイトや普通の仕事につくことはわたしはどうもできない。どうにか自分の能力を活かして仕事をしたい。
でもその仕事もまともに食えるほどでもないというもどかしさ、
他人と比べてしまいみじめ。
そんな低気圧で不安定で憂鬱な気持ちでホームセンターへ行った。
その子は大きくなりすぎて、鉢はパンパン。鉢底からも飛び出して、土の上からも直径5センチはありそうな太い根が形成されていて鉢の上から外に飛び出て鉢を外から抱え込むように伸びて地面に向かっていた。
高〜く伸びたその木はたくさんの葉をつけているが、見切られた値段だけあって、葉には元気がない。
黄ばんだり、穴が空いたりしている。
虫がついているように見える。
雑に扱われていて枝も傷ついていて植え替えも長いことされていないようだった。
そんな子を連れて帰った。デカすぎて車の後ろから助手席までぐいっとねじ込ませていただき帰った。
人は勝手に自分と重ねてみたりする。
わたしも鉢がパンパンみたいだ。
仕事や、家族や、この町や、この家や、いろんな世界がもう窮屈で仕方がない。植え替え待ちだ。もう何か違うことをしたいと鉢を飛び越えて叫びのように根が伸び出ている。でもそこに土を見つけられない。
根詰まりして呼吸ができないから、実る葉っぱは元気がない。新しく出てくるアイディアや気力の新芽も元気がない。
この植物を植え替えたいが、まだ時期的に早いのだそう。
寒い時期の植え替えや過度な剪定は株に大きな負担になる。だから葉っぱや虫を取り除くことしか今はしてあげられない。
もしこの植物にとっての管理者、神様がわたしなら、
わたしを管理している神様がもしいるのなら、わたしはまだ植え替え時期じゃないのかもしれないね。
その時が来たら植え替えが行われるのかもしれない。
剪定や植え替え、
それは自分が根を回して知りきった世界から、全く未知で、わけもわからない広い世界に急に移し替えられる。それは自由への一歩かもしれないが、とてつもないストレスや恐怖でもある。
強い剪定もまた、自分の積み重ねてきた歴史の枝を巻き戻すような、まるで無に返すような痛みをともなう。
しかし、植え替えられた根は呼吸しやすくなり、水を補給しやすくなり、新しい根を生やす。
ひょろながく一本で伸びていた枝が剪定されると、二股に元気な新芽が生える。
強いストレスの後には、新たな力が宿る。
植え替え時期ではない今。わたしは、かなりセーブした働き方をしている。それはもう人生でいったらちょっとした休みなくらいギリギリにしか働かない。そうしないと続けていけなそうだから。今まで頑張ってきた分、今は自分の心を休ませる時間にしようと思っている。
しかし休んでいる分あまりの収入の変化やサボっているように感じている優等生な私の一部が自分を責めたり、比較して、惨めな気がするのだった。でもセーブしているのだから仕方がないことだ。
今はいわば弱った葉を落としていく。葉を蝕む害虫をとってあげる。負担の少ない延命治療をして元気を温存させる時期なのだ。
仕事や人間関係で、自分のやる気をむしばむものをできるだけ減らして、距離をとって、時間をつくり、次の新しい新芽が元気に出てくるように待っている。
苦しみもがいているはみ出た根っこは生きたいという証拠だ。生きたいほどもがくのだ。
この子を元気にさせてあげたい。あまりにもデカイこの子はせまい家の天井スレスレにまであるほどでとても場所をとってたたずんでいる。愛おしい。。
先人は自然から多くのことを学んだ。
自然はいろんなことを教えてくれている。
わたしも自然に勇気づけられたような。自分で自分を納得させたような。気がした。
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