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人生は見世物小屋

「さあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい
鬼が出るか蛇が出るか…
何が出るかは はいっ 見てのお楽しみ」

天井桟敷『毛皮のマリー』の口上である

見世物小屋という概念に私は少し憧れている

変人ぶるわけじゃないけれど、どこか欠落しているか過剰な私が、
普通の人を形態模写しながら生きるのは
時々息苦しい
「私はおかしいからふつうのふりをしなくてはならない」

と、決心した高校時代からこちら、擬態は上手くなる一方で
それでいて我が強いので、ときどき自我が正面衝突してしまうのです

このままだといつかモンスターみたいになって、

「さあさあ、ほら見てごらん これがキチガイババアだよ
虚構と欺瞞でできていて
心の奥に怪物がいるから幸せになれないの
安心や幸福が嫌いなの
お嬢ちゃんはこんなふうになっちゃダメよ」

なーんて、わたしはそんな感じでみなさんのお役に立てるかもしれない

卑下しすぎかしら

いやいや、幸せになりたいし、幸せになるぞ

しかし、私の「幸せ」には、「人に面白がってもらう」がどうやっても欠かせないのです それは、孤独といえば孤独なのでしょう

自分を切り売りして生きていきたいと思う せっかくの体験がもったいないものね
書いたり被写体をしたりすることで
もっともっと自分を見世物小屋みたいにしていきたいと思っていた
風通しをよくするためにも

「人生がめちゃくちゃになったら被写体に向いている」
と、好きな女性カメラマンが言っていた

狂気には、人を癒す力があると思う

少なくとも、狂気めいた真面目な人、もしくは日常に溶け込んだ人間の狂気を私はすきになる。どこか安心するし愛しいと思う。狂気を売りにしたり不幸自慢したりするのは無粋だし好きじゃないのだけれど。

それは創作の世界でも同じで、私の好きな小説も音楽も、どこか狂気をはらんでいる。

原点を辿れば、小学時代に太宰治の『人間失格』を読んで、

「私みたいに嘘つきで自意識過剰な人間が、他にもいるんだ…」

と初めての衝撃を受け、安堵したものだった。大人になってからは、自意識過剰で自己顕示欲旺盛で繊細すぎて狂っている人間とばかり親密になってきた。私は彼らに出会えて嬉しいと思う。やっと「人間」に出会えた気がしたから。哲学でいう、実存的交わりができたのだ。
太宰も夢野久作も安部公房や三島由紀夫や寺山修司に姫野カオルコ、ニーチェにソクラテスにディオゲネスにドストエフスキーに、amazarashiやBUMP OF CHICKEN…
私の好きな人々はみんな狂ってて、そして同時に物凄くまっとうだ。
不完全で狂ってる、まっとうな人が好き。
私も彼らのように人を癒す狂気になれたらいいな。

そんなことを思っていたら、人生がますますおかしなことになっていって、だいぶ、ネタとしては「面白く」なってまいりました。

殺されかけたり家のガラス割られたり…最近なにかとエキサイティングでした。

つらいことがあっても、見世物小屋としての私は、

「さてさて、面白くなってまいりました、どうなってしまうのでしょう!?」

と煽るのです。これは、子供のころからの癖です。いつも心に見世物小屋を。

ちなみに見世物小屋は人権の面から問題視され、
今ではほぼなくなった。
近代だし、それで正しいのだと思う。

しかし、ワイドショーや赤裸々告白みたいなものに人は惹きつけられるし、

『見世物小屋』的なものを求める人間の本能みたいなものは、きっとなくならないんじゃないのかな。

(昔下書きした文章を公開してみました。写真は、村野四郎記念館より)

#コラム #哲学 #見世物小屋 #とは

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