認識と実感

 ねこっちです。

 日常生活や学問において、「認識と実感は違うな」と感じることが数多くあります。今日は、そのような「認識」と「実感」について、定義を述べた後に、それにまつわる話を書いてみようと思います。


認識・実感の定義と例

 まず定義です。この記事では、「認識」と「実感」を次のように定義します:

認識・・・そのものの存在を知ること。
実感・・・そのものの意味するところを理解すること。

 この定義だと分かり難いので、例を述べることにしようと思います。ここでは地球と月、太陽の位置関係を例にとります。

 地球から見ると、太陽と月はほぼ同じ大きさです。小学生のころこれを理科の授業で習い、「ああ、そうなんだな」と思うことと思います。これが「認識」です。「地球から見ると、太陽と月はほぼ同じ大きさであること」を知ったのです。

 このことを習った当初は、「そういうことか、そういうこともあるよな」という程度の理解です。確かに大きさの異なる物体が異なる位置関係にあると、その頃合いによっては、同じ大きさに見えることもあるな、と思うのは当然です。

 しかし、月の位置がこの位置だから「日食」という現象が起こることを知ったり、はたまた今の月の位置だから潮汐力のバランスが取れ、今の地球があるということが分かるようになると、この理解が1段上に上がります。先ほどは「地球から見ると、太陽と月はほぼ同じ大きさである」と漠然と分かっていたのが、驚異とともに理解できるようになるのです。「これはすごい」「奇跡だ」と言わんばかりの、腑に落ちるような理解ができるのです。これが「実感」です。

 認識は漠然としているのに対して、実感は自分の血肉になったような鮮明な理解が伴うのです。

実感は難しい

 認識に比べて、実感を経験するとその対象を忘れなくなり、自分の一部になるほどその物事を深くわかることができるのですが、一般に、実感は難しいことです。

 まず、実感するには多くの経験を伴っている必要があります。自分の中の多くの経験が指し示す方向と、理解する物事の方向が合致したとき、実感がまざまざと現れるのです。先ほどの例で言えば、日食や潮汐力を知っていなければ、地球と太陽、月の位置関係の実感には至れません。

 認識は、その物事を知識として知っていれば、「ああ、そういうことか」と自然に起こることが多いのですが、実感は、物事の深みを知っていなければ起こりません。実感は、認識と比べると格段に難しいのです。

実感に関して・私の話

 私は、ここまで書いて言うのもなんですが、経験が少なく、なおかつその経験も偏っており、実感できた物事が少ないです

 例えば、私の経験の少なさといえば、今まで「友達」をもったことがほとんどなく、一緒に腹の底から笑ったり、喧嘩したりというのは物語では見たことがあるものの、実際に想像できる具体例は皆無です。

 さらに、小説などを読んだりテレビ(ドラマなど)を見たりすると、「登場人物が今まで悩んできた苦しみ」や「叫び声の音色」、「(お笑いなどであれば)『アホか!』などのチクチク言葉」にダメージを受けてしまい、たとえそれがフィクションでもショックを受けてしまうため、そうしたものにも安易に触れられません(なお、ここは私の過敏性が関わっていることと思います)。

 そのため、私は経験が極端に偏っており、かつその総数も少ないため、実感できることが滅多にありません。

 すると私が見てきたものごとのほとんどは「認識」で止まっていることになります。さらに、その認識も偏っており、私は物事を誤解してしまうことが多いです。認識の横糸が結ばれ、「実感」に変わった数少ない物事も、実は誤解だった、というような例も多いです。

最後に

 今日は私が感じたこととして、「認識」と「実感」について書いてみました。私は経験が少ないので、物事を実感のフェーズに移すことだけでも一苦労です。

 今回の記事で述べた「経験が少なく、なおかつ情報に対して脆い」という特性は、実は私の大きな悩みの一つです。先日『鬼滅の刃』(ついていたテレビ)で人が血を流して倒れている場面を偶然見てしまい、吐き気を覚えて寝込んでしまったほど私は情報に対して弱いものですから、本当に私は限られた世界に住んでいるのだと思います。

 今は『アンパンマン』を見るなどして少しずつ情報耐性をつけているところですが、今後も情報耐性の弱さ、およびそこから来る経験の少なさには悩むことと思います。

 今回の記事も、私の備忘録として書きました。少しずつですが、実感できることを増やしていきたいと思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

   ねこっち

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