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オバケ興奮特性

 ねこっちです。

 先ほど、「キャラクター紹介#4」を書きました。

 その中で、私は自身の特性の一つをカミングアウトしました。それは

実は私は人(特に子ども)がオバケや動物になるような描写に異常に興奮するという謎の性癖(というより特性に近い?)をもっており、子どもや人に魔法をかけるキャラクターが多いです。

キャラクター紹介#4|ねこっち より引用

 というものです。

 そうなんです。実は私は、子どもや人が魔法をかけられるなどしてオバケや動物、石などに変化する描写に尋常でないほど興奮する、自分でも理解不能な特性をもっています。

 ここで、これが「性癖」というよりは「特性」に近いことを注意しておきます。というのは、「オバケ化」や「動物化」には、私は性的な要素を感じないからです。むしろ私にとっては、一般的な性的な描写のほうがこの「オバケ化」の感性に吸収されてしまうほどです。つまり、例えば射精の時の快感でさえ、私にとっては少なからず「オバケになる感覚」として解釈されているところがある、ということです。

 そのため、私はこの「オバケ化に興奮すること」を「オバケ興奮特性」と呼んでいます。

 この記事では、なぜそうした特性をもっているのかについて、考察してみます。


すでに幼児期からもっていた

 私は幼いころ、よく「アンパンマン」を見ていました。今でも、好きで見ることがあります。

 「アンパンマン」では、よく登場キャラクターが別の動物に変身することがあります。例えば、『それいけ!アンパンマン 夢猫の国のニャニィ』では、「ムーマ」という怪物によって、アンパンマンたちは猫に変身します。ほかには、『それいけ!アンパンマン ゴミラの星』では、ばいきんまんが作った「ダストデーモン」というメカによって、アンパンマンたちは手足のない「泥人形」にされてしまいます。

 そうしたシーンを見た幼児期の私は、なぜか体が熱くなり、妙に強いエネルギーが湧き上がってくるのを感じていました。アンパンマンたちが別の身体になってしまう様子に、強い興奮を覚えていたのです。

 そして、この興奮を決定的にしたのが、小さいころ母に読んでもらった「ねないこだれだ」という本でした。この本の最後、女の子がオバケになって飛んで行ってしまう描写は衝撃的で、それに恐怖を感じたことのある人は多いことかもしれません。


有名な最後のシーンです。

 しかしこの時私が感じたのは、「恐怖」ではなく「興奮」でした。体がこんな姿になってしまうのはどんな感覚なのだろうと思った瞬間、強烈なパワーが湧いてきたのです。

 不思議なこの感覚は、私が物心ついたころからすでに持っていたのです。

創作・感性への影響

 私がもっているこの「オバケ興奮特性」は、私の創作や感性にも影響を与えてきました。

 最もわかりやすい影響は、これによって私が大量の物語を書いてきたことです。その巧拙は別として、私は子どもがオバケになる物語を、これまで100本以上は書いてきたように思います。

 もうすこし分かり難い影響としては、自分の悩みに対するものです。

 人は生きていると様々に葛藤し、その中で大きく変化、成長するものです。しかし、その様子が、まるで「無機質な魔法でオバケになっていく子ども」に見えてしまったことがあり、私は変化や成長を恐れるようになりました。これは「オバケ興奮特性」が私の人生に与えた、最大の負の影響です。

 後述するように、興奮の本質は恐らく「魔法の無機質さと、人間の儚さ」にあるのですが、それをもっともリアルにほうふつとさせたのが、この「困難の中で成長していく人間の姿」なのです。

 社会、法律、人間関係、病気、・・・。様々な、無機質な困難に「変えられてしまう」形で子どもから大人になるのが私は嫌で嫌で仕方なく、いつも「自分を変えるのならばそれは自分の力だ」と思い、自分で自分をどこまでも変えていくことにこだわっていました。その一つの現れとして、先日の記事で述べた「天才至上主義」がありました。

 凡人を醜いと感じたのは、凡人が「ただ変えられてしまう」存在だったからかもしれません。まるで魔法が効いてしまい、身体がオバケになってしまうか弱い子どものように。

 それが嫌で、天才を目指していたのは、ある種、この「オバケ興奮特性」が私の人生に落としていた大きな影だったのかもしれません。

なぜ興奮する?

 ここで「オバケ興奮特性」の本質に迫っていきます。それは、なぜこれほどまで私が「オバケになってしまう子ども」に興奮するのか、ということです。

 「その子」が魔法でオバケになってしまうとき、「その子」の体は強い魔力にやられ、その魔力に何か見えない「その子」の体の機能が呼応して、体の中がオバケに変化していくのだと思います。

 「その子」は笑うとあんなにかわいいのに、あんなに素直なのに、「その子の何か」が魔法に反応して、その子はおろか、どんな学者でも分からないプロセスで、その子の体がオバケになっていく。

 私は、「その子」の体の変化が、まるで魔法に冒された「その子」の生命の悲鳴のように感じて、その痛烈さに興奮するのです。これが私の幼児期の興奮の仕組み(想像)です。

 一方、私が大人になり、少しずつ心を理解し始めるようになると、その「生命の悲鳴」と「心」の関係に関心が向くようになりました。

 「その子」は、オバケになったことがショックで、泣き出してしまう。何日、何週間泣いても、もう元に戻らない。あの頃、楽しく駆け回った2本の足は、もうない。

 何を食べても、何をしても、つらい。ぼく/あたしは、もうオバケなんだ。

 そうおもった「その子」は、いつの日からか、自分を受け入れる。「オバケ」の自分を。すると、その子は少しずつ前向きになれる。

 その子の生命は、悲鳴をあげ続けている。魔法と戦って、負けて、オバケになってしまった。その子の体は、あの日からずっと泣き続けている。

 しかし、心は、自分を受け入れて前を向こうとしている。体の泣き声は今も聞こえる。しかし、その声を聞きながらも、心はそれを振り切って、「オバケとしてのぼく/あたし」を受け入れようとする。

 この時の心の大きな変化、もっと言うと、身体を乗り越えていく心の自由さと、それを包む儚さに圧倒され、その圧倒のエネルギーが行き場を失う形で、私の興奮はより一層強くなったのでした。これが大人になってから進化した「オバケ興奮特性」のメカニズム(想像)です。

 以上はあくまでも想像ですが、おそらくこれが私のオバケ興奮特性の本質的な部分です。

最後に

 今回は思いきって私の「オバケ興奮特性」をカミングアウトしました。自分という存在は、改めて、自分でもよく分からないです。

 しかし、こうして自分を理解する作業は、数学で言う「逆問題」のようで楽しいです。逆問題とは、「2+3=?」のように順に計算すれば解ける「順問題」の対義語で、「2+x=5」というように、与えられた条件を満たす何かを、分かっている物事だけから逆に考えて解いていく問題の総称です。様々に条件を変えて思考し、自分に問いかける形で、自己理解が進むこのさまが、逆問題と似ているのです。

 今日は、私の意外な一面を見せてしまい、驚かせてしまったかもしれません。「ねこっちは変わっているな」程度の認識で受け流してくだされば幸いです。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

   ねこっち

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