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感情を言葉にできない

「自分の言いたいことが分からない」

 これは、私が日頃感じている苦しみです。精神科通院やカウンセリング、および学校の先生との面談で、いつも私は自分の言いたいことが分からないのです。

 私は、自分の言いたいことや感情がいつもわからないので、爆発(パニック)や暴言と言った危険な表現に陥ってしまうことが多いです。かつて、まだ不安定だったころはそれが日常茶飯事で、最大のサポーターである母にも爆発してしまったため、たいへん多くの迷惑をかけてしまいました。

 この記事では、「自分の言いたいことが分からない」というこの感覚を共有していこうと思います。


表現が好きだが下手

 私は、表現することが好きで、自分の考えたことをさまざまに形にするのが楽しいです。先日も不調になるほど漫画をかいたり、またLINEのスタンプづくりにも挑戦したりしています。

 しかし、私の表現はどこか独特で、分かりにくいことが多いです。過去に自分が書いたものを読み返してみると、自分でもこの時の感情が分からない、ということは数多くあります。

 noteで様々な方の記事を読んでいても、「これ自分が言いたいことだ!」ということを華麗な表現で書かれている方にいつも目からうろこです。自分も同じことを感じていたのに、私の場合は言葉にするのが下手なのです。

全暗記

 私の物言いは、どこか古風で大人びていることがあります。例えば、先日投稿した「能動性」の記事は、自分でも恥ずかしいほど古風な文体でした。

 これには理由があり、これは私の読んでいる愛読書『春宵十話』(岡潔 著、光文社)の表現を全暗記して書いてしまったためです。私は、自分で言葉を組み立てることが大変困難で、基本的に日常会話も、何かの感想も、既存の文体を暗記することで書いたり言ったりしています。自分で文章を作ろうとすると、どうしても平易で単調なものになってしまいます。

模範解答を見たような感覚

 私はどうにも感情表現が下手で、母には「避けている」と誤解されています。しかし私は避けているわけではなく、本当に表現が分からないのです

 この感覚には、例えて言えば「模範解答を見て唸るような感じ」というものがあります。いつも自分の感情の内容を他者から言われて初めて気づき、まるで問題集の模範解答を見たように「そうか、そういえばいいのか!」という感覚になってしまうのです。

 これに関して、一つ具体例を挙げます。昨日、知人の方2人と母と私でランチに行ってきました。その方は魅力的な方で、私はランチ中の話がたいへん楽しかったことを記憶しています。

 ランチが終わり、会計の時に、私はその人に話しかけたくなりました。しかし、自分の中にある感情が分からず、もじもじとしていました。

 この日の夜、母にそのことを話すと、母から次のようなことを言われました。

「今日は楽しかったです」といえばよかったじゃない。

母の一言

 私は衝撃を受けました。言いたいことはこれだったのです。しかし、その時は私自身が自分の感情に気づかず、その言葉がどうしても出てきませんでした。このときもまた、「今日は楽しかったです」という模範解答を見たような衝撃を受けたのでした。

感じているのに言えない

 私は、自分の感情を感じていないわけではありません。人並みに、楽しいことは楽しい、苦しいことは苦しいと感じます。しかし、それを言葉にすることがいつもできないのです。

 表現しなければ、他者からは「感じていない」と扱われてしまいます。そのため、苦しいと感じることがあります。それは日常会話を通した心の共有だけでなく、精神科の主治医に自分の苦しさを伝えることもまた然りです。

 いつも自分の感情を言えないため、私は「もうダメだ〇にます」か「もう大丈夫です心配いりません」かのいずれかしか周囲に発信できません。思考が一番煮えたぎっている、ドロドロのグロテスクな状態を共有することができないのです。

 感じているのに言えない、というこの感覚は、自分という檻に閉じ込められているような不思議な感覚です。

蛇足:失感情症?しかし診断がない。なぜならば・・・

 私も自分の苦しさを少しでも発信したいので、ネットや書物で思いあたるものを調べる事があります。すると、私の「感じているのに言えない」というこの苦しみは、失感情症という病気が近いように思いました。

 失感情症とは、自分の感情を言葉にして表現することが困難であることを特徴とする障害です。感情を自覚できず、言葉にするのが困難であるため、他者からは「冷淡」「何も感じていない」と誤解されることが多いです。

 失感情症という言葉を知らなかった時も、私は「自分の苦しさを言葉にできない苦しさ」を主治医に伝えてきました。しかし、私は「感情を言葉にできない」と言うこの苦しさに対して、治療やサポートを受けたことがありません。つまり、この苦しさはまだ伝わっていないのです。

 それもそのはずです。感情を言葉にできないということは、「自分が失感情症であるかもしれない」というこの苦しさも言葉にできずに自分の中につっかえているということなので、主治医に伝わっていないのです。つまり、感情を言葉にできないため、感情を言葉にできない苦しさすら言葉にできない、ということです。

 この「とんち」のようなことに、私は何年も苦しんでいます。

最後に

 今日は「感情を言葉にできない」という苦しみについて、その内情を説明する記事を書いてみました。読むにあたって重く苦しい記事になってしまったかもしれないこと、申しわけありません。

 感情を言葉にできない私にとって、noteは自分の内面と向き合い、それを表現できるので便利に感じています。これからも自分を表現する場として活用したいと思います。

 今後、ゆっくりになるとは思いますが、自分の感情を言葉にできない苦しみを主治医と共有することを改めてやっていきたいです。私は、感情を言葉にできない一方で、取っ掛かりをつかめればマシンガントークのようにしゃべることができるので、取っ掛かり(問題の本質)を掴むことがこの場合は有効になると思います。

 それまで、いつも通り淡々と自分を整えていこうと思います。

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

   ねこっち

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