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高校生の頃の読書感想文『ドストエフスキー - 罪と罰』

 ナポレオンは何故称えられ崇拝されるのか。ベートーベンは、ゴッホは、イエス・キリストは何故?

 挙げればきりが無いが、新しい世界、境地、言葉、律法を作った偉人はたくさんいる。僕達はそうして作られた社会の歯車となって生活している。

 しかし、何故こういった(本書の言葉を借りれば)『新しい言葉を口にした人』は、その生涯が"異常"である場合が少なくないのだろう。偉人を挙げて異常は失礼かもしれないが、しかしそれが一番ぴったりだと思う。

 何千・何万という人の命を奪ったナポレオンが、島流しにされたナポレオンの人生が、果たして異常でないと言えるだろうか。毎日が悲劇だったベートーベン、自分の耳を切り落としたゴッホ、十字架にかけられたキリスト。その人生に正常という言葉ほど似合わないものは無い。そうした偉人は、息をしていた頃、一つ一つの行動がもはや"罪"だったのではないのだろうか。

 ……こんな思想は膨張しすぎた戯言だと言われるかもしれない。しかしドストエフスキーが生み出した天才、ラスコーリニコフは言う。「新しい言葉、物を発見する才能を有する人は、その天性によって(程度の差こそあれ)どうしても犯罪者たらざるを得ない。」

 彼(ラスコーリニコフ)の理論はこうである。例えばニュートン。ニュートンが新しい発見をした際に、その発見を全世界に提唱する際に、それによって一人、あるいは十人、百人、もしくはそれ以上の人々の命を犠牲にせざるを得ない状況がある時。状況がどうであれ、ニュートンが発見を隠す必要は無い。かといって、それ故にそれら(他の学者)の生命に障害を与えてしまうことは"罪"にならないのだろうか。

 考えてみればその通りだ。新しい世界を求める気持ちはいつも遠く向こうを見つめていて、足元の犠牲は後回しだ。発見者がそれまでの常識を壊し、故にたくさんの犠牲者を出すこと("犯罪者"になること)が、何故多くの状況によって"許される"のか。

 ラスコーリニコフはこう解釈して論文を立てた。「全ての人間は『普通(低級)の人』と『普通ならざる人』に分けられる。『普通ならざる人』はその特別な才能において、状況や場合によっては様々な障害を"踏み越える"権利(人を殺めることもしかり)を持ち、自分にそれを許可することが出来る。」

 この恐ろしく傲慢な思想、精神、信仰が物語を動かし、全ての常識に宣戦布告する。この本での犯罪が他の犯罪と一線を画しているのは、根本におかれたテーマが違うからだろう。

 「人類二種類説」が認められるべきかどうかは、ラスコーリニコフが自ら証明(?)しようとしているのであえて触れないが、彼はまたこの説の中で"大衆(マス)"に対しての皮肉も漏らす。そして、それこそが(偏見的な言い方をすれば)異常な犯罪者を台座に上らせ、神とさせる一見不可思議な出来事の発生理由の一つなのだ。

「『普通の人』の集まりである大衆は、いつだってその時代の支配者である。支配者である自分たちを脅かそうとする『普通ならざる人間』には、罪をくだし、絞首刑にすらしてしまう。ところがそのくせ、つぎの時代になるところの同じ大衆は、前に罰した罪人をあがめて奉る。そうして低級な人間は世界を保持しつつ増大し、高級な人間がその道を示す。」

 言葉がきつい物言いな故に抵抗も出るが、しかしこれを否定することも出来ないことは事実だ。この180度の方向転換を、心変わりをなんなくやってのけてしまう人間の身勝手さこそが、(程度の差こそあれ)さまざまな事例を作り上げる要因の一つになっているのだ。そしてそれは穿った見方をしてしまえば、ラスコーリニコフの思想より傲慢なものにもなりえるんじゃないだろうか。

 200年以上も前の作品が今も好んで読まれる所以は、やはりそこから得られる感動、教訓の普遍性からなるものが大きいだろう。しかし裏を返せば、人間は200年以上もの間(むしろそれ以上の間)、何一つ変わらない教訓を毎秒ごとに突きつけられていることになる。

 これだけの歴史(始まりはアダムとイヴだろうか)をもってしても改善できず、引きずっている人間の"罪"をどうしろとは言えないが、たくさんの名作から滲み出るのは『死(罪)からの復活(蘇生)』だ。犯してしまう罪を諦めたときにすでに復活は無い。ナポレオンになれることは無いにしろ、一つひとつの罪に対する罰と向かい合うことで自分の世界は変わるはずだ。

 テレビで流れるニュースから今の時代を"死"の状況であると感じたら、そこからの"復活"は関係ないように見えて、身勝手な自分自身の罪と向き合っていくことなのかもしれない。

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