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ネットのアーカイブ性に人類が恐怖する日

この二年くらいから、意識的に、ネットで批判的なことを書かないようにしている。面識のある相手はもちろんだし、一方的に知っている著名人でも、特定の誰かでもないふわっとした概念でも…最後は言いたいことはどうしてもあるので調整中。理由はシンプルに損しかないからだけど、Twitterでトレンドです!と上がってくるものは相変わらず共感を得る批判が多くて、怖い世の中になってきたなと感じる日々。

リアルとは違ってネットの批判は甚だ性質が悪い。残るからだ。いつまでも、周りから見れば、今さっき言ったかのような形で。先日、週刊雑誌で連載がはじまったばかりの漫画家が3〜4年前にTwitterでした発言で批判されていると知った。その内容はまぁそりゃ批判されるかなというものだけど、3〜4年前のことだよ。スクリーンショットで切り出されると、投稿時期を判断する情報は隅っこにある日付だけで、その言葉が持つパワーは変わらない。

このサーバが存在する限りは公開されつづける半永久的な「アーカイブ性」ってのが、いつまでもどこまでも届くというインターネット最大のおもしろさのひとつだと思うけど、逆にいえばどこまでもいつまでも他人を巻き込み得る言葉が残りつづけるということ。インターネットが一般に普及しはじめてから、ぼちぼち20年といったところだろうか。そろそろこのアーカイブ性が牙を剥きはじめると思う。人は変わるんだから、今の自分にとって都合の悪い過去の自分は、誰にでもいくらでもあるだろう。

犯罪じゃないけど(場合によっては犯罪になるけど)、前科がずっと残るみたいなもんだと思う。自分が意識的にやめたという理由はそんな計算めいた発想じゃなく、単に「後味が悪すぎるから」ということなんだけど、変わっていこう、掲げた目標に近づいていこう、少しでもそう思える人間が、人を・何かを批判なんてするもんじゃないと思う。それは必ず足を引っ張る。半永久的に。恨みも買うし、その人を応援する人も敵になるし、自分自身が今後矛盾した行動だって取り得るし。

意味を生む批判があるなら、その考え自体が自分自身の目標に沿っていること。ぶつかりざる得なかった場合だ。たとえば俺は外国人実習生問題に絡んで、メディアの情報だけで「実習生かわいそう」「経営者はクソだ」と瞬間湯沸かし器的に思い込むことが思慮浅すぎだと思ってて、そういう姿勢をここのところ批判している。百害あって一理ないと思うし、外国人が増える日本でこの考えは身を滅ぼし兼ねないと思うから。ただ、今後自分がその意見を変えない、ということは保証しない。変わったとしてもその矛盾は認めるつもり、それでも今ここで言わせてほしいから批判してる。

でも、それが批判である以上、これを気に入らないと思う人は必ずどこかにいると思う。火中の栗に手を突っ込むことで刺されることもゼロとは言えないけど、目標(というより欲求に近いかも)のためならしょうがない。逆に言えば、そういう覚悟のあることでないと、批判はしない方がいい。去年?福岡で、ネット上のイザコザから人が殺されたでしょう。被害者は、ネットの叩きをする加害者をたびたびブログ記事でも嘲笑していたという。どっちが原因をつくったんだかもう分からない。ネットとリアルは別世界なんて思っちゃいけない。身を守るためにも批判はしない、それでもするなら、繰り返し言うけど、覚悟のある人だけだ。

無論これは自分が何者か周りから分かっている場合の話で、匿名で責任を受け止めずに批判するというのは論外だと思う。たぶんクセになって時間が奪われつづけるのでやめておいた方がいい。自分の快感のために人に迷惑をかけるって、セクハラやパワハラと大して変わらないと思うが、そんな自分を許せるのなら、それはもう、そうかとしか言えない。

ぜんぶうまい棒につぎこみます