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もしかして:人生 ~難病診断から移植までのあれこれ~②

【病気発見と大学生活】


本記事は、「特発性肺動脈性肺高血圧症」に診断されてからの10年間を綴る連載ものです。
未読の方は前回の記事からどうぞ!


最初に「あれ? おかしいな?」となったのは、中学生の時、所属していた陸上部での練習中でした。
いつもは軽快に走れている距離が、突然しんどくなり始めたのです。
心臓が苦しく、鼓動も速くて、立ち止まって呼吸を整えないと倒れてしまいそうになるくらいでした。
また、体育の授業でシャトルランっつーもんがありまして、その記録もあまりにも悪く、ジャージの上からでも分かるくらい心臓の鼓動が激しくなっていました。

周りに相談しても「運動不足なんじゃない?」と言われ、まさか大きい病気にかかっているなんて思いもよらずに、納得してしまいました。

私が住んでいたのは岩手のハチャメチャに集落な地域。
医療も街に比べて適当なものだったので(脳梗塞の祖母を風邪と診断するほどのヤブ医者……)、中学・高校の健康診断でも私の症状はスルーされています。


そんな状態のまま、大学進学のため、集落から大都会シティTOKYOにやってきます。

1学期の健康診断の数日後、保険課から電話がかかってきました。

「心電図に異変が見つかったので、大きめの病院で再検査してください」

めんどくさいなと思いながらも近くの中央病院へ。
心エコー検査をパパッと終わらせて帰るつもりが、なんだか大掛かりになってきて、検査は1時間を超えます。

その後の診察で告げられたのは、「心臓が大きくなっているようです。ここよりも大きな大学病院で診察をしてもらってください」という診断。
さすがに段々不安になってきて、この時点で、唯一の保護者である父に電話で報告をしています。

夏休みに入り、岩手に帰省したタイミングで、父と共に大学病院へと向かいました。
そして、検査の結果「特発性肺動脈性肺高血圧症」だと告げられます。

聞き馴染みのない病名にわけがわからず、どんな病気なのか、悪化するとどうなってしまうのか、これからどうすべきなのか、何も頭に入ってきません。
一方で、悲観しようにも事の重大さが実感できず、「今までの症状はこれだったのか! 運動不足じゃなかったじゃん!!」という気持ちが先に立ってしまうぐらい、心情としては冷静だった感じもあります。

その後、「このまま入院し、投薬を始めて様子を見ていく。大学の後期は休学し、来年の復学を目指す」という方針が決まります。

入院の手続きを済ませ、父も家に帰り、ようやく落ち着いて自分の気持ちと向き合う余裕ができた夜。
ひとりきりの病室で、初めてちょっとだけ泣きました。


そこからは投薬治療が始まり、しんどい日々が続きました。
肺高血圧症の治療には、血管を広げたり、血流を良くしたりするための薬を主に用います。
頭への血の巡りも良くなり、ずっと頭痛が治まらないことが多いです。
もちろん鎮痛剤ももらえますが、大して効かない……

入院から2ヶ月ほど経ち、病状も当初よりは安定してきたので、退院して自宅療養へと切り替わりました。
3月いっぱいは岩手の実家で、4月から復学する準備を進めながらゆったり過ごしました。
不思議と、この状態でのひとり暮らしに不安はありませんでした。

そして4月! いざ復学! 
病院も東京の大きいところに変わりました。

色んなトラブルがありながらも、2回目の大学1年生を過ごしていたさなか、父が仕事を辞め関東に来ることになりました。
遠距離恋愛状態だった彼女と同居して、私に何かあったときにすぐ動けるようにするとのこと。
しかし、父の仕事はすぐには見つからなかったらしく、私は大学に通いながら、学費、医療費、生活費をすべて自分で稼ぐことを余儀なくされました。

コンビニ、アパレル、通販会社の夜勤でトリプルワークをしながら大学に行って……という生活を続けていましたが、やはりこの体では限界を迎えてしまいます。
残念でしたが、大学を辞める決断をしました。

そこからは闘病をしながら、奨学金を返すため、生活を続けていくためにまたバイト生活が始まります……


次回、【悪化する病状】

よろしくお願いします。


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