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棺を満開にして

 「桜が綺麗すぎて、わたしもうすぐ死ぬんじゃないかなって、涙が出そうになる」後れ毛を風になびかせながらそう言う彼女は、きっと私と同じ星の人だ。そう確信した。桜は満開が一番切なく寂しい。全て散ってしまった時の虚無をどう乗り越えればよいのかと、私は飽きることなく毎年頭を悩ませる。強い風、優しい雨で花は散り、流れていく。桃色に埋め尽くされた川を見ると、その美しさに心を奪われると同時に、桜の終焉を感知し絶望する。

 桜の木の下には死体が埋まっているという都市伝説は、花が美しすぎるが故に生まれたものだろう。 地面に埋まっている毒々しいものたちを吸い上げて、彼らは奇麗に花盛る。坂口安吾「桜の森の満開の下」にて、山賊が「桜が美しい」ことを「桜が恐ろしい」と取り違えてしまうのも無理はない。未知数の美しさは、恐怖に匹敵するのだ。不安を覆うようにたくさんの逸話が誕生し、今日まで存在し続けるが、それらには信憑性がなければ根拠もない。未知を恐怖する人間が、恣意的に紡いだ出鱈目である。「綺麗」が「綺麗」である理由は、ことばによって表現可能である。しかし「奇麗」なものはどれだけ言葉を尽くしても「奇」なるままで、ことばによって実態を捉えることなど不可能なのだ。"奇麗"は恐ろしくとも、魅力的である。人間は既知を蔑ろにし、未知の魅力に取り憑かれてしまう。「謎」や「ミステリアス」に模されるものに心奪われ、底なしに知ろうと足掻き続ける。それはまるで消費社会のように、我々は"知"に満たされぬ呪いにかかっているのだ。得体の知れぬ存在への恐れから、桜の美しさを何かに規定しようとあらゆる言葉を尽くすが、今日に至るまで本質的なことはなにも理解らない。奇麗な桜は、なにも言わずに咲き続ける。

 春に死んでしまいたい。棺の中の私を、薄紅色の花弁で埋めつくして。「奇」なる死を遂げ、「奇麗」な花と共に散りたい。花が散り葉桜になった今、現世への絶望が留まることを知らぬ今、「20歳になったら一緒に死のうね」というあなたとの約束の歳より長生きしてしまっている今、私と同じ齢のはずのあなたが今年も17歳であり続ける今、また来年の桜を見たいと思っている。たったひと月しか咲かぬ花たちを糧に、私はまた生き続けてしまうのだ。
浮世の隙が明けた暁には、溢れんばかりの桜で花葬されたい。そうして、私が産まれた日に植えた桜の木の下に、私の身体を還して。季節が巡り次の春が訪れれば、木の根が私の生きた証を吸い上げ、麗しい花が開くだろう。私が産まれたことと、この世に生きていたことを、きっとこの花が証明してくれる。私という桜が「奇麗」に毎春花開き、徒な風によって吹雪く。永遠に生き続け、死に続ける。天命を全うとした命と、自ら絶った命とならば、どちらの方が美しく咲くのだろうか。私はただ、置かれた場所で美しく咲きたいだけだ。死体と桃色の花というアンビバレンスな棺は、きっとこの世でいちばん美しい。終わりの世界で始まる春を、そしてあなたを失った春を私はまだ見ていたいと思う。絶望の世界で咲く桜は、より一層に奇麗なのだから。
桜はモルヒネのように、私の希死念慮を緩和する。これはみんな、春の呪いだ。

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