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あなたはどんな作家になりたいのか?

noteには、小説家志望者が多い。クリエイターに憧れる若者が多いのは、ごく自然なことだし、決して悪いことではない。
ただし、どんな小説家になりたいのかが、曖昧な人も少なくないのではないだろうか?

小説家と言っても、当然いろいろある。
芸術性の高い作品を書く小説家もいれば、多くの人に娯楽を提供するために、娯楽商品だとわりきって書く小説家もいるだろう。
当然のことながら、どっちが偉いという話ではない。そもそも、目指すところが違うからだ。

しかし、自分がどっちを目指すのか、曖昧な小説家志望が少なくないと思う。
と言うのも、理想を言えば、芸術性と娯楽性を兼ね備えた作品を書ける小説家になりたいと、普通はそう考えてしまうからだ。

しかし、言うまでもなく、これはきわめて困難な道である。
じっさい、芸術性と娯楽性を兼ね備えている小説家といって、すぐに思い浮かぶ小説家が、いったいどれだけいるだろう。

実際のところは、優れた小説家だと評価されていても、それは「あの小説家はすごい作家だけど、そんなにたくさん本が売れるわけじゃない。そもそも、ろくに本も読まない人たちが手に取って、面白いと感じるような作家ではないだろう」とか「あの小説家の作品は、時間潰しにはちょうどいい、肩のこらない娯楽作品だ。飛び抜けてすごいと言うほどの作品はないけれど、安定感があって、安心して読める」という具合に、どちらかに分かれてしまうはずだ。

例えば、本格ミステリ作品を書くにしても、「まったく前例のないトリックを使った、前代未聞の作品」を書こうとすると、容易なことでは作品は書けない。たまたま書ければ、その前例の無さの価値を理解できるマニアが絶賛するかも知れないが、一般の読者はそもそも、そのトリックのオリジナリティに気づくことができない。
だから、無理に「まったく新しいトリック」を案出するよりは、既成のトリックの変奏やアレンジの方が、ずっと楽に書けるし、一般ウケもする。なにしろ、わざわざ、変奏やアレンジをしてまで使いまわそうとするような既成のトリックというのは、もともとインパクトのある、一般ウケの良いものであるからだ。

つまり、前例なき斬新な作品、時代を切り開く最先端の表現、といったものは、非凡な才能がなくては叶わないものだし、そのぶん、玄人筋からの評価は高くなる。また、文学史に、その名を残すことになるかもしれない。しかし、同時代に、その価値を十全に理解できる読者は限られており、したがって、商業的な成功には結びつかない蓋然性が高いとも言えよう。
そもそも、大衆というものは、必ずしも尖ったものを好むわけではなく、慣れ親しんだものを好む傾向が強いからだ。
だから、最先端を行こうとするか、一般ウケを狙うか、どっちか片方だけでも容易ではないのだから、まして両立させることなど、普通はできないのである。

したがって、あなたが小説家を志しているのなら、どちらの方向性を志すのか、はっきりさせておいた方がいいだろう。「二兎を追う者は一兎をも得ず」になる可能性が高いからだし、たいがいの場合、最初は、尖っていたけれど、それでは食えないのがわかってきて、だんだんと妥協を重ねた末に、個性など無いに等しい、いてもいなくても困らないような小説製造業者になってしまう、というのが関の山なのである。

もちろん、プロの小説家として食っていければいいと割り切れるのなら、それも一つの選択だろう。
しかし、小説家を志す人というのは、少なくとも最初は「無二の存在」たることを目指すのではないだろうか。時間潰しのための、作者が誰かなどどうでもいい、そんな小説を書く作家になりたいのではなく、「あの人の作品が好きだ」と言われる作家になりたくて、小説家を志すのではないだろうか。
だとすれば、結果として、なし崩しに「名もなき小説製造業者」になってしまうのは、その人自身にとっても不本意だろうし、不幸なことなのではないだろうか。

無論、夢や理想を捨ててでも、ひとまず金儲けができるのなら、そこで割り切ることもできるだろう。だか、小説家というものは、職業としても、そんなに甘いものではない。

知ってのとおり、小説家というのは、山ほどいる。それは小説家になりたい人が山ほどいるからなのだが、その中で売れっ子になるのは、ごくごく一部であり、多くの作家は初刷作家である。つまり、本を出しても、増刷されることのない作家だ。

直木賞を取って以降、売れっ子の仲間入りをした大沢在昌も、デビュー以来、ずーっと初刷作家だったと語っている。
エンタメ作家で、のちに直木賞を取るほどの力がある作家でも、それまでの長らくは、初刷で終わっていたのだ。

ちなみに、初刷作家が、職業として、どれだけシンドイものかをご存知だろうか?
例えば、単行本の印税は、基本1割だから、2000円の本だと200円になる。それを初刷で何部刷ってもらえるかが問題なのだが、今どきは、エンタメと言えども、誰でも何万部も刷ってもらえるわけではない。
一部の売れっ子は、初刷五万部かも知れないが、普通の作家は初刷一万部だったりする。
だとすると、それで入ってくる印税は、200万円である。
これを多いと思ったら大間違いだ。

普通は、いくら多産な作家でも、年間3冊をコンスタントに刊行することなど、なかなかできない。そんなには書けないのだ。
だから、コンスタントには、年間2冊と考えると、単行本刊行による年間収入は、たったの400万円であり、普通のサラリーマンより低い(別に、雑誌原稿料などもあるが、それを含めても、売れない作家の年収は少ない。売れない小説家の本は、文庫にもならない)。

しかも、初刷がそこそこ売れていれば、本を出してはもらえるが、あまり売れなかったりすると、初刷部数を減らされるか、印税比率を下げられる。つまり、2000円の本でも、初刷5000部にされたら、100万円しか入ってこない。すると、年間2冊しか刊行できなければ、年間収入は200万円である。
あるいは、部数は減らさないかわりに、印税比率を0.8パーセントに下げられれば、それだけ収入は減る。

それでも、大沢在昌のように、ブレイクすれば、部数も増え、印税は比率も元に戻るが、そんな幸運は滅多あることではない。売れなかった作家が大化けするより、売れなかった作家がそのままフェードアウトする可能性の方が、圧倒的に高いのだ。なにしろ、小説家になりたい人はいくらでもいて、次々に新しい才能のデビューしてくるからである。
要は、売れない作家は、いずれ本を出してもらえなくなり、淘汰されるのである。

つまり、小説家になって、人からすごい才能だと褒められ、本も売れ、収入も十分にある、そんな作家になりたいなどと望むのは、かなり現実を知らない、スイート・ドリーマーだと言わなければならない。

だから、プロの作家になりたいのなら、稼ぎは少なくとも、芸術家として尊敬される、歴史に名を残すような作家を目指すのか、逆に、知名度も評価はそこそこでも、ひとまずプロとして食っていける職業作家を目指すのか、そのあたりを、はっきりと意識しておかないと、幸運にも本を1冊出せはしたものの、それでそのまま消えてしまう、といったことになる可能性がきわめて高いのだ。

しかも、自分の才能に見切りをつけて、うまく転職できれば幸いだが、多くの人はそう簡単に夢を捨てられないだろうし、いつまでたっても目が出ずに、さすがにもう諦めようかと思った時には、つぶしの利かない中年になっているといったことも当然あるだろう。

だから、小説家という職業に憧れる気持ちはわかるけれども、それを本気で目指すのであれば、人生を捨てるくらいの気持ちでかからなければならない。

どんなに苦労をしようと、結果として、売れっ子や著名作家になった人は、いろいろな意味で「幸運な人」なのであり、そういう人の背後には、消えていった人たちが百人いると考えた方がいい。
普通に考えれば、自分がその売れっ子作家のようになる確率より、消えていった作家たちの仲間になる確率のほうが、圧倒的に高いのである。

それでも、あなたは小説家を目指す覚悟があるだろうか?

若手のお笑い芸人が、よく語るように、無いに等しい収入で、それでも頑張れるか? 頑張ったからといって、皆が売れっ子になるわけではないし、売れない人は売れないなりに仕事がもらえるなんてことは、小説家にはない。小説家は、所属タレントではなく、独立自営業者だからだ。

それでも、あなたは小説家を目指す覚悟があるのだろうか。道半ばで、のたれ死んでも本望だと、そんな覚悟があるだろうか。

「あいつは、夢を追う社会的落伍者だ」と、そう罵られ、後ろ指を指されても、自分にしか書けない小説をこの世に残しておきたいと、そう願い続けることができるだろうか。

それならば、私はあなたの愚行に、最大限の敬意を表したいと思う。
あなたに才能が無く、のたれ死ぬことになっても、その生き様、死に様を称賛することだろう。
芸術とは、そうした愚か者たちの犠牲の上にこそ築かれるものだからである。

(2021年7月29日)

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