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直感と論理の狭間で。説明できないワクワクと、説明できる愛。

Twitter:@__nenza




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昨日一昨日のnoteでは、ものごとを判断する際に「直感的認識」と「論理的認識」の二つが作用していて、その認識に基づき、ひとはかっこいいorかっこ悪いを決めているのでは、ということを書いた。

「直感的認識」は例えばヴァンフォーレ甲府の胸スポンサー『はくばく』をみた瞬間にどう感じるかという認識だ。これに影響を与えるのは図内の要素だ。ぼくは『はくばく』の入ったこのユニフォームをかっこよくないと主張。理由は『はくばく』の日本語はデザインとして成り立たず、読むものだからかっこよく感じないと記した。ぼくらが日常的に使うからこそ、日本語を読む以外にぼくらは能力を持っていないのでは?と考える。

しかし、日本語にはかっこ悪い文字だけではない。
やんちゃな中学生は「髑髏」がかっこいいと思うし、セルヒオ・ラモスの「狼」のタトゥーも確かにイケている。

となると、ここに影響するのはどういった事柄だろうか。

ひらがながダメ?
普段見ないような漢字がいい?
外国人が使っているからかっこいい?

突き詰めたらわかるのだろうか。


「論理的認識」を先ほどの「直感的認識」とは別の認識として掲げた。簡単に言うと、論理的認識はその人それぞれのバックグラウンドに影響されるので、非常に繊細な判断が下されているものだ。ぼくがバナナマンのキャップをかっこいいと思うが、世間の意見は全く違うかもしれない。もう宗教的な話にもつながってくる。

ヴァンフォーレ甲府のユニフォームを題材にしたが、ぼくが「直感的認識」でユニフォームをかっこよくないと言った反面、甲府サポーターは別の意見を持っているだろう。
長年スポンサードしていただいている愛着のある企業に対して、その姿勢や行動をかっこいいとおもうひとはいるはずだ。そしてそこの理解がある人は、『はくばく』の文字もかっこよく感じるだろう。まさにぼくにとってのバナナマンがそうだ。


それなら気になる「直感的認識」と「論理的認識」互いのパワーバランスはどうか。
ぼくなりの考えを書いていく。



◾️客観的に見れない。見る必要がない。

論理的認識によりかっこいいと思ったものは、よほどのことがない限りかっこ悪いと思わない。

バナナマンのキャップを買うぼくは、単にキャップのデザインがかっこいいから買うのではなく、彼らの笑いに対する信念や、哲学に惚れ込んだから買う。その惚れ込んだ芸人が出すキャップだから買う。そう考えると、デザインはもしかしたらそんなに気にしないのかもしれない。

事実、フラットな目で見てかっこいいと言えないキャップをかっこいいと思っている自分がいる。論理的認識はしばしば人を盲目にさせる。

この傾向を簡単にすると、「論理的認識」による判断は「直感的認識」を無視することができる。

論理的認識でかっこよさを感じる層にあるのは必ず「愛着」や「自分とのエピソード」だ。そしてこれは、人の美的センスを錯覚させる。もしくは創造する。

そいつの作るものは全てかっこよく思えてしまうのだ。ぼくにとってのバナナマン。甲府サポーターにとってのヴァンフォーレ甲府だ。

するとどうなるか。


作り手は「直感的認識」を軽視するようになる。


このノートに書いてあることがこの一連の実験によってやっと理解できた。これはぼくの言葉だ。

もはやJクラブは、「直感的認識」になんだかんだ言ってくる層を気にしていない。いや、気にしてるとやってられない。お金的な意味で。

「直感的認識」によるかっこいいをつくるためには莫大なお金が必要だ。それこそ魅せ方だし、最先端を提示しなければ勝てない。センスのある人を用意しなければならない。

一方で、一度虜にしてしまえばある一定の期間、もしくは永遠とサポートしてくれる層がいる。その層の獲得には、草の根のような努力自身への共感をしてもらう必要があるが、時間さえかければある程度獲得できる。
「論理的認識」でかっこいいと感じる層だ。

世界はそれをファンと呼ぶ。

ならファンを囲ったらもうある程度のクオリティでなにを出してもいいじゃないか。少し前までぼくはそう思っていた。
しかし今回いろいろなことを調べるに当たって、あることに気がついた。むしろそんなこと気がついていなかったのかと言いたくなるレベルだ。


◾️新規獲得とかっこいい

ぼくらは野菜を買うときに、大きいものだったりとか新鮮なものを買う。もちろん汚くなっているのは買いたくないし、そこで「ここの農家のにんじんのファンだから買おう」とは基本ならない。
ビジュアルで選んでいる場合がほとんどなのだ。

ここでぼくは「直感的認識」で判断していることに気がついた。なにより野菜ライト層のぼくはビジュアルの良し悪しでしか、野菜を選ぶ術を持っていない。なんだ野菜ライト層って。

サッカーでも同じことが言えるはずだ。
誰でも最初は一年生。有名な歌にもある通り、誰でもはじめは愛着など持っていない。それでも好きになる理由はもれなく直感的に良いと感じるからだ。デザイン、雰囲気、ぱっと見でわかる要素しか影響しない。内輪向けのコミュニティが入りづらいのと一緒で、常に新しく外を向いていない組織は魅力的に感じない。

新規を獲得しないコンテンツはいつか死ぬ。
エンタメは「直感的認識」で訴えることを諦めた途端に死ぬ。強く主張する。

エンターテインメントを大きくするためには、直感的認識に訴える施策を行い、ライト層を獲得することが絶対に必要だ。よし、Jリーグもライト層獲得のために、かっこいいものを作ろう!!そうすれば日本サッカーも強くなる!







思わぬ敵が存在する。コンテンツを大きくしようとするエンターテインメントに間接的に待ったをかける存在だ。


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物語風になってきました。毎日更新しだして20日くらい。Twitterでもたくさんの方が意見をくれて楽しい毎日です。これからも勝手なこと書いていこうー。

さて、敵とは一体誰なのでしょうか。
ここまで読んでいただいたあなたに、特別にヒントを!

左下のスキを押すとヒントが出てきます。そしてその存在がかっこいいを間接的にできなくさせていることも…。

さてのみにいきまーす。では!

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